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名所図会 巻1-15 仁德天皇陵

仁德にんとく天皇てんわうのみさゝき


                              仁德にんとく天皇陵    大山陵だいせんれうとも云
                              はんしやう天皇陵   楯井たてゐのみさゝきとも云
                              かたたがひのやしろ
                              くにのつじ

舳松へのまつりやうにあり。大山だいせんりやうと号す。封域ほういく、今、そんする所、外堤千二百八十三間、中堤九百五十五間、山まはり七百六十三間、南みね十四間、きたみね十六間四尺。四はんに小塚九箇所あり。

[日本紀]曰、
仁德天皇六十七年冬十月、河内國石津原いしつのはらゆきあつて、りやうを定め、始てみさゝきつかしめ給ふ鹿かのしゝなかよりはしり来ッて、役民ゑきみんなかに入り、たちまちたをしににける。人みな、其そつをあやしみて、きずさぐるに、百舌鳥もずみゝなかより出て飛去とびさりぬ。是故このゆへに、みゝのなかるに、ことごとくくひさきかきはけたり。於是こゝにおいて、其所をなづけて、百舌鳥もずの耳原みゝはらといふ。それ是縁このもと
同帝八十七年春正月、天皇ほうす。冬十月、百舌鳥野もずのみさゝきかくす。

[舊事記]曰、
仁德帝八十三年秋八月十五日、天皇崩す。冬十月、百舌鳥野もずのみさゝきほうむる。

[古事記]曰、
仁德帝御宇、捌拾やとせあまり参歳みつとせ丁卯年八月十五日崩す。御陵みさゝき毛受もず耳原みゝはらに在。

[延喜諸陵式]曰、
百舌鳥もずの耳原みゝはらのみさゝきは、なにたかつの御宇しろしめす仁德天皇也。在和泉國大鳥郡
兆域てういく、東西八町、南北八町、りやうゑん

今の仁德天皇陵


南海堺東駅前 堺市役所高層館21階展望ロビーから望む仁德天皇陵(百舌鳥耳原中陵)


仁德天皇陵(百舌鳥耳原中陵)遥拝所

周濠の内側に建てられて「仁德天皇百舌鳥耳原中陵」碑 仁德天皇百舌鳥耳原中陵」碑(拡大写真)

遥拝所前案内板 仁德天皇陵全景(案内板写真)
 堺市堺区大仙町にある日本最大の前方後円墳です。
 北側の反正陵古墳(田出井山古墳)・南側の履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は、全長約486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部幅約305m、高さ約33mの規模で、3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。
 葺石と埴輪があり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、犬、家などが出土しています。昭和30年代と最近の調査で、造出しから須恵器の甕が出土しました。古墳が造られた年代を知る資料として、話題になっています。明治5年(1872)には前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。この時の出土品は再び埋め戻されたと言われていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。アメリカのボストン美術館には本古墳出土と伝えられる細線文獣帯鏡や単鳳環頭太刀などが所蔵されています。日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上あります。仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)よりも、あとで築造されたことが、わかっています。全周2.8kmの周遊路として整備されています。

更新履歴
更新:2014年10月19日 11:23:34 今の仁德天皇陵を追記
作成:2014年 8月13日 21:01:22 再構築
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