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名所図会 巻1-17 龍興山南宗寺

龍興山りうこうさん南宗なんしう


南宗寺[全景]


南宗なんしう 表門


南宗なんしう境内けいだい
たんくはのたう
ぜうをうのたう
せんのきうのたう

南荘、旅篭町の東にあり。禅宗。京師紫野大德寺に属す。

かい
正覺つう國師、大林和尚。中興、澤菴たくあん和尚

佛殿ぶつでん
額、たい寶殿ほうでん清巌せいがん和尚筆。
本尊中央しやぶつ。左、文殊もんじゆ。右、けん。左脇檀、だる大師。右脇檀、梵天ぼんてん王、しやもん天、摩利支まりし天。

昭堂せうだう
額、曹溪そうけい。澤菴和尚の筆、左檀、将軍家より國初こくしよ御代々神牌しんはいを安す。中央、つう國師。右檀、澤菴たくあん和尚。

鐘樓しゆろう
額、坐雲亭。天室和尚筆

山門さんもん
額、かんもん。王室和尚筆。

方丈
額、唐筆。庭、ふるおりこのみ

浴室よくしつ
額、澤菴和尚筆。

きやく殿でん
額、にう。澤菴の筆。ふすまの狩野かの秀信ひでのぶの筆。

影堂ゑいだう
花林くはりん居士のせきあり。銘、澤菴和尚書す。花林居士は、堺のせん刺史しし喜多見きたみ若狭守忠勝たゞかつなり。

惣門そうもん
額、竜興山。江雪和尚の筆。

たんくは肖柏せうはくのたう
当寺にあり。

一閑齊いちかんさい紹鷗ぜうおうのたう
当寺にあり。此石塔にみゝあてれば、たぎるをと聞ゆる也。

せんのきう
歴代の仮墓也。

いでよしふさのゑい
きやく殿でんにあり。きしの和田わだ先城主なり。

いしかうさのかみ
きやく殿でんにあり。堺津せん刺史しし也。

塔頭たつちう
天慶院、在中庵、四甫庵、長慶寺、宝光院、集雲庵 此庵は、一休、岐翁共に開基し給ふ。 移春庵、本源院、臨江庵、德泉庵 此二庵は、清巌和尚の開基也。 厚德庵、勝善院。

鎭守ちんじゆ八幡宮
境内にあり。

かゞみのいけ
集雲庵にあり。

もり明神社
臨江りんこう庵の内にあり。当庵の鎮守なり。俗説曰、應神天皇に乳を奉りし神を勧請すとなん。今、人、のなきをうれひいのるに、すみやか霊験れいげんありとて、諸人群詣くんさんする也。一説には、道守みちもりうぢまつると也。[姓氏録]云、和泉國道守朝臣は、八多やた八代やつしろ宿祢すくねのち也。[日本紀]にも見へたり。又、一説には、此所の地主神をまつりて、もり明神といひしを、もりと聞て、乳汁にうしうたるぐはんをかけしに、霊験れいげんあらたにして、其とくありとぞ。

そもそもたうは、はじ舳松へのまつかたはらにあり。つうこく大林たいりんしやうともいほりむすんで屏居へいきよす。三好みよし修理太夫しゆりのだいぶ長慶ちやうけい國師こくしゑつして傾心敬仰けいしんけいかうし、すなはちこう二年、寺地じち宿すくの南にうつし、かうよしちくぜんのかみ元長もちなが功德場くとくじやうとして、こゝに建営こんゑいし、りようこうさん南宗なんしうがうす。 則、元長もとながぞうだいしやう正二位南宗院殿でんしやうず。 此ときちやうけいいゝもりのじやうにあつて、弘治二年、ちやうけいみづから検校けんげうして、当寺に諸材しよざいはこばし、をのはじめをなさしめ、同三年五月朔日、三まんぐはんりやう寄附きふす。佛殿ぶつでん法堂はつだう禅堂ぜんだうしちぢうのたう鐘樓しゆろうきやうざう山門さんもん惣門そうもん、九十二間の回廊かいらう、百八けん塔頭たつちうしゆりやう宝藏ほうざうはうじやう方丈、庫裡くり浴室よくしつおほ書院しよゐん書院、対面所たいめんしよかくれうやくしよぎよもん花月亭くはげつていとうまで、堂々だうだう巍々ぎゞとして創建さうこんある。同年十一月十五日には、南宗なんしうやうとて、だうは、つうこく、其外諸山しよざん大德だいとくだいだんよしちやうけいだい簾中れんちう花洛くはらくより大臣だいじんぎやうらい輿し給ひて、花月殿くはげつでん安居あんきよし給ふ。遠近ゑんきんせんちくの如く群参くんさんして、しやうごん二のれいじやうとぞ拜しける。神べうには、せんよし長輝ながてるれいまつり、神像には、長輝の甲冑かつちう弓箭きうせんを持たる馬上のざうたけ八寸に黄金わうごんを以てさせ、本社に安置す。 旧地南宗寺の南にあり。 其外、社頭しやとうに十二けんの宝藏を建て長輝のひやうをさむ。しやりやうには弐千貫を附与ふよせられ、毎歳まいさい五月十二日の例祭、いと厳重げんぢうなり 已上[三好家旧記]大意。 厥後そのゝち、天平元年、当寺禅院ぜんゐんさつじゆんじられける。たうたいにして、壮麗さうれいたる所、桑田さうでん変じて海となるの習ひ、同二年、松永まつなが久秀ひさひで凶賊けうぞく、堺津に乱入し、当寺の黄金の像をかねしりけん、これをうばひ取て、社頭へ火をかけ逃去にげさりける。此時、堂舎たうしや過半くははんくはいろくわざわいに及ぶ。又、元和元年四月廿七日、ひやうせんかゝついちのこらず焼失せうしつす。 此日、開山つうこくじやくの日也。 ひとみなあやしみけり。厥後そのゝち世上よのなかしづまりて、澤菴たくあん和尚再建す。喜多見忠勝たゞかつ 堺の吏曹、 小出こいで吉英よしふさ 岸和田城主、 ゐん山名全高ぜんかう、力をあはせ栄繕ゑいぜんたすく。故に、澤菴たくあんほうじて中祖とす。其時、しやうぐんよりも税田ぜいでんを賜ふて、ながきう梵刹ぼんさつとなる。元和九年七月十日、台德たいとくしやうこくたい輿、当山に入御じゆぎよし給ふ。同年八月十八日、大ゆう将軍の台輿、当山に入御し給ふ。两将軍、当山のうんていぎよましまして、とをく西南の海面うみづらつらなる、うみ阿波あはあはの嶌山、北には、須磨すま明石あかしけい眺望てうばうし給ひて、逍遥せうよう時をうつし給ふ。爾来しかつしよりこのかたじやういくくはうますこと、むかしにかはらず 以上[寺記]

今の龍興山南宗寺

龍興山南宗寺由緒
 南宗寺は、龍興山と称し臨済宗大徳寺派に属す。
 境内には、総門・仏殿・山門・唐門・鐘樓・弁天堂・方丈・禅堂・坐雲亭の建築物と、塔頭の徳泉庵・本源院・天慶院がある。
 南宗寺は、大永六年(1526)、京都大徳寺の住職古嶽宗亘が堺の一小院を南宗庵と改称したのが始まりと言われる。
 大林宗套は、南宗庵で古嶽に参禅し、その後大徳寺の住職となったが、天文十七年(1548)、師の遺命によって堺に帰り、南宗庵に入った。
 大林和尚に帰依した三好長慶は、父の菩提を発願し、南宗庵を移転して東西八町南北三十町の壮大な寺院を造営し南宗寺とした。
 その後、天正二年(1574)の松永久秀の乱、及び慶長二十年(1615)の大坂夏の陣において南宗寺の堂宇は悉く灰燼に帰した。
 当時の住職、沢庵宗彭と堺奉行喜多見若狭守勝重は、南宗寺の復興に尽力し、元和五年(1619)、現地内に再建した。
 南宗寺第十三世住職清厳宗渭は、正保四年(1647)、山門(甘露門)を造営し、さらに承応元年(1652)には仏殿を建立しており、現在の伽藍は、この頃までに整備されたと考えられる。
 明治三年(1870)に南宗寺住職となった牧宗宗寿は、禅堂及び鐘樓を建立し、我国最初の臨済宗専門道場を開いた。その後、昭和二十年(1945)、太平洋戦争により、開山堂・実相庵・方丈・庫裏を焼失したが、方丈・実相庵は再建され、現在、大阪府下唯一の臨済宗専門道場として多数の道俗に修行の場を提供している。
【出典:南宗寺リーフレット】


南宗寺総門
間口二間、奥行一間の四足門。大林和尚「龍興山」の扁額が掲げられていますが、今は見ることができません。


山門「甘露門」(国指定重要文化財)


山門扁額「甘露門」
甘露門は、三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺の建物で、禅宗様と和様の折衷様式になっており、棟札により正保四年(1647)の建立であることがわかっています。清厳宗渭筆「甘露門」の額が掛られています。


仏殿「大雄寶殿」(国指定重要文化財)


仏殿天上画「八方睨みの龍」 狩野信政筆
仏殿は大雄寶殿とも言われ、方三間の主室に裳階をまわした方五間本瓦葺の建物で小規模ながら純粋な禅宗様仏殿である。中央に釈迦如来、左右に文殊、普賢の両菩薩を安置し、天上には狩野信政筆「八方睨みの龍」が描かれている。棟札により承応元年(1652)の建立であることがわかっています。


唐門(国指定重要文化財)


唐門(国指定重要文化財) 内側から見た写真
唐門は細部様式から十七世紀中頃のものと見られます。簡明な構造の向唐門です。木鼻の絵様繰形は、甘露門のものに通ずる共通性が認められます。戦災により焼失した東照宮へ通じる唐門です。現在は、お茶会の時のみ開門されているようです。


坐雲亭
重層の様式で山内最古の建築物。下層三間四方、上層一間四方。内部に徳川秀忠、家光両将軍の御成を記した板額がかかる。



千家一門の供養塔
中央に利休宗易居士の碑、左右に不審庵(表千家)、今日庵(裏千家)、官休庵(武者小路千家)の碑が立っています。


武野紹鷗の供養塔


牡丹花肖柏の供養塔


南宗寺歴代の墓と三好一門の墓


伝 徳川家康の墓


徳川家家紋「三つ葉葵」の瓦が置かれた築地塀


茶室「実相庵」
 明治九年(1876)に堺博覧会がこの南宗寺で開催され、この時南宗寺の通り向いの鹽穴寺にあった千利休ゆかりの茶室「実相庵」が移築されました。
 昭和二十年(1945)第二次世界大戦の堺空襲で焼失しましたが、昭和三十八年(1963)に再建されました。
 この実相庵は、利休好みの茶室であり、二畳台目、平天井と蒲の落天井の二段構成である。側壁は瓢形に壁を残し、給仕口を開襖とし、にじり口を点前座より開けるといった特色があります。
利休遺愛の「向泉寺伝来の袈裟形手水鉢」 紹鷗遺愛の「六地蔵燈籠」
茶室「実相庵」の前に据えられています。




方丈の枯山水庭園
 方丈前の枯山水庭園は、国指定名勝で仏殿等が建築された江戸時代初期の作庭と考えられ、前面に広く白砂を敷き小高くなっている地形を利用して枯滝を組み、そこから小石により表現された枯流れを右手の方向に流しています。
 上流部に架けた石橋と枯滝とがよく調和し、中央部にある横石の石組も素晴らしく、平庭枯山水形式の庭と石組造形を組み合わせて構成された美しい庭園です。

南宗寺塔頭 徳泉庵(現寺号:徳泉禅寺)




扁額「徳泉庵」(特別公開リーフレットより転写)
 南宗寺の塔頭で臨済宗大徳寺塔頭高桐院に属します。本尊は観世音菩薩像。慶安元年(1648)松江宗安(銭屋の屋号をもつ堺の豪商で長崎より中国人を招いて紗の金襴織りや白粉製造の伝修を得て堺で製造販売を始めた人)が母徳泉追福のために創建、清厳宗渭(のち大徳寺第百十七世、南宗寺第十三世)を請して開祖としました。
 清厳和尚は、千家第三代宗旦の参禅の師。宗旦が清厳和尚を茶席に招いたとき、遅刻した和尚に「明日に来てください」と言い置いたのに対し、和尚は茶席の板張りに「懈怠此丘不期明日(懈怠の此丘明日を期せず)」と書置きました。これは、「遅刻するような怠け者の僧の私は、明日のことはお約束できません。」という意味です。これを見た宗旦は「今日今日といひてその日をくらしゐる あすのいのちは兎にも角にも」、つまり「今日を大切にせずに暮らしていました。明日、命がどうなるのかもわからないのに。」と詠んで詫びたことが、裏千家「今日庵」の名称の由来といいます。
 徳泉庵内の墓地には宗安を始め、父宗訥・母徳泉・徳泉の父誉田屋徳隣及び宗安の子遠貞の墓碑があります。
 本堂内の扁額「徳泉菴」は、清厳和尚の筆蹟です。和尚は、この徳泉庵の他に同じく塔頭臨江庵を開基したほか、南宗寺甘露門や総門を建立しました。
【出典:徳泉庵特別公開時のリーフレット】

南宗寺塔頭 臨江庵(現寺号:臨江寺)


臨江寺門


乳守明神社

曾我稲荷社 曾我十郎・五郎兄弟供養塔と虎ご石

松尾芭蕉句碑 句碑(拡大写真)
「口切にさかいの庭のなつかしき」と刻した芭蕉の句碑
 当初臨江庵と称し、承応元年(1652)今井宗久の曾孫今井兼続が開基となり、清厳宗渭禅師が入山して開山となった。臨済宗大徳寺派南宗寺の塔頭の一つで公儀堀に臨んでいたのでこの名がある。
 かつて境内に多くの萩があり、「萩の寺」とも呼ばれた。今井家累代の菩提所で千利休の師である茶聖武野紹鷗の墓碑のほか、堺魚市に重税を課した織田信長に逆らい処罰を受けた十人の町衆の霊を弔らった十王堂趾や、日本三大仇討の一つ曾我十郎・五郎を偲ぶ供養塔と、兄弟を祭った曾我稲荷社、十郎の恋人だった遊女虎御前が石に化したと伝えられる「虎ご石」、昭和二年(1927)に発掘された「口切にさかいの庭のなつかしき」と刻した芭蕉の句碑、また地元乳守遊廓に因んだ霊験あらたかな乳の守り神様「乳女郎ちじょろうさん」や、乳守之旧蹟の碑の裏面にある上賀茂神社神官加茂かもの季鷹すけたかの歌碑などは中世の堺を知る上で興味深い。
【出典:堺市設置臨江寺案内板】

更新履歴
更新:2014年10月19日 17:26:51 今の龍興山南宗寺を追記
作成:2014年 8月13日 21:45:51 再構築
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