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名所図会 巻1-02 堺浦

さかいのうら


さかいしん水門みなと
堺のしん水門みなとは、寛政の初よりくはんめいありて、遠淺とをあさなるをほりしやはこびて、むかしにかはらず海舶かいはくにう水門みなととなりて、はんじやうの地となれり。まことなる哉、神功しんぐう皇后くはうぐうおんに、住吉すみのゑの太神おゝんかみ往来かよふふねを見るとのたまひしも今こそおもひあたりたれ。

享禄かうろく、天文の頃より、此しよ州の入舩にうせん多く、唐舩たうせん蠻舩ばんせん入津にうしんして、貨物くはぶつ交易かうゑきする事、きやうるいなく、大にはんじやう要津ようしんとなる。きうには、英雄えいゆう武士ぶし、諸だう逸人いつじん出て、天下にだかく、かくしよくきんせいぐはんざうとし、かんひんもてあそぶ事をならひとす、風俗ふうぞく男女共なんによとも柔輭にうなんにして、れいこうしやうす。じん形容けいよう大概たいがいけいたり。

[夫 木]
  夏と秋と堺のうらの松風にかたえすゝしくよするしらなみ              圓 曽


今の堺旧港


堺旧港[全景]

その昔、堺は、室町時代に起った応仁の乱の影響で遣明船の発着港となり、戦国時代には南蛮貿易、キリスト教宣教師の来日などによって海外との交流の拠点となりました。当時の堺は、世界でも珍しい環濠都市を形成し、貿易都市・自由都市として繁栄しました。その富を背景として、堺商人の1人である千利休が茶の湯(わび茶)を完成させる……など、さまざまな文化も花を開らかせました。その繁栄ぶりは堺を訪れた宣教師が「東洋のベニス」と表現するほどでした。
その後、港は、それまで河内から北流し淀川に流れ込んでいた大和川の「付け替え」を宝永元年(1704)に着手し、現在のように堺に流れ込むようになりました。そのため、大和川の河口部は流れ込む土砂が堆積するようになり、新田開発が活発に行われました。その反面、堺港は港湾施設としての機能を次第に失う結果となりました。
江戸時代末期、江戸浅草の商人吉川俵右衛門よしかわひょうえもんが、商用で訪れた港の様子に一念発起し、堺商人の協力もとりつけて、寛政初年(1790)頃に修築を開始します。その後多くの困難を乗り越え、文化7年(1810)までのおよそ20年がかりで工事は完成し、現在の堺旧港の原型がこのときつくられました。
明治時代に入ると、南波止場に六角錘形の木製洋式灯台が造られる(1877)。この旧堺灯台は1960年代末まで港に出入りする船の安全航行を見守っていました。
現在、港近くの南海本線堺駅前には灯台型の街灯、ハットとマント姿の巨大な南蛮人像が立つ南蛮橋、シンボルロード沿いの市小学校の壁には南蛮貿易の様子を伝えた見事な陶板壁画。町中で当時の華やかなりし港町・堺の歴史がうかがえます。

龍女神像
堺市堺区北波止突提

龍女神像(愛称:乙姫さま)
この龍女神像は、明治36年(1903)第5回内国勧業博覧会が開催されたとき、堺会場(現大浜公園)の水族館前に記念像として設置(木骨モルタル貼り白セメント仕上げ高さ3m)されました。
像の制作は時の明治政府が東京美術学校(現東京芸大)へ委託され、同校教授 竹内久一氏の手によって制作されたものです。この博覧会終了後、水族館と共に堺市が払い下げを受け、昭和47年(1974)撤去されるまで70年間に恒り、堺の乙姫さんと呼ばれ、市民から親しみ愛されたものでありました。この大浜海岸は塩湯や海水浴場、潮干狩りなど当時のリゾート地として、多くの人々でにぎわっていたそうですが、昭和33年(1958)を境として始まった、臨海工業地帯の埋立開発などに依って、水族館の入館者も減少傾向のなか昭和36年(1961)の第2室戸台風で大きな被害を受け廃館されるに至り、水族館の解体撤去と同時に龍女神像の傷みも激しく危険なことから撤去されました。
像の撤去に際し(株)白石彫刻研究所(堺市北区)先代彫刻家白石正義氏は堺市民の平和と繁栄のシンボルとして親しまれていた像がなくなることを惜しみ、復元像(ポリエステル製高さ3m)を制作し昭和50年(1975)堺市に寄贈し、永年に恒り堺市博物館に保管されていましたこの復元像をもとに今回の拡大像が平成12年(2000年)に市制110周年記念事業として、平和と繁栄のシンボルである龍女神像(リン青銅製 高さ10m)が現在の地に復元建設されました。
【本コメントは、復元建設を担当された白石彫刻研究所の資料を参考にさせていただきました。】

旧堺燈台
堺市堺区大浜北町5丁1-22

旧堺燈台
     
旧堺燈台

旧燈台の直ぐ後ろを走る高速道路
旧堺燈台は、木製の六角形の灯台で、高さは11.3メートルで、現存する最古の木製洋式灯台のひとつとして、昭和47年(1972)7月12日に国の史跡に指定されています。
明治時代初期、堺港の改修事業に伴い、新しい灯台設置の必要性が高まった。そこで堺の有力者らは自ら基金を出し合い、当時の堺県からの補助金も受けて灯台を建設した。灯台の建設にはイギリス人技師のほか、堺の大工や石工も深く関わっている。
明治10年(1877)に堺港の南波止場に灯台が完成し、同年9月15日から稼働した。当初の光源は石油ランプを使い、約18キロメートル先まで灯台の光が届いたとされています。
しかし時代が下り、昭和34年(1959)から始まった臨海工業地帯の埋め立てにより、徐々に灯台の役目を果たせなくなった。そのため灯台は昭和43年(1968)に廃止され、90年の歴史に幕を閉じました。

大浜公園




大浜公園
この付近は、明治、大正、昭和初期には、関西有数の海浜リゾート地として海水浴、潮湯、少女歌劇、水族館や、料理旅館街に賑わった所です。 明治36年(1903)の第5回内国勧業博覧会開催時に開園した堺水族館や、海水を利用した浴場「大浜潮湯」あり、大正12年(1923)には潮湯の余興として大浜少女歌劇が創設され人気を博しました。しかし、昭和9年(1934)の室戸台風で大浜公園が壊滅したため同年に解散。短命に終わりました。また、阪田三吉と関根金次郎が将棋を行った一力楼という料亭があった場所としても知られています。
江戸時代に開催されていた魚市場跡に近いことから、毎年夏には堺大魚夜市が開催されています。
公園内に日本一低い一等三角点を持つ山として知られる蘇鉄山がある。明治天皇も登山をし、公園内に明治天皇巡幸記念碑があります。
公園の北西には市民の寄付で建設された歴史的建造物の旧堺灯台があります。
現在は、学生相撲大会が開催される相撲場や野球場、体育館、プール、グラウンド、猿島などを中心とした地域公園となっています。
大浜潮湯は戦前、美章園温泉(大阪市阿倍野区)、源ヶ橋温泉(大阪市生野区)とともに「大阪3大温泉」と称されていました。大浜潮湯の建物は現在、河内長野市の天見温泉「南天苑」に移築されています。
近年、利用者の餌やりにより猿島の猿の肥満が問題になっており、管理者である堺市大浜公園事務所では、近々餌やりができないよう、フェンスで猿島を囲む予定でいるらしい。

一等三角点のある日本一低い山「蘇鉄山」


蘇鉄山[全景](頂上標高 6.85メートル)
  
蘇鉄山登り口                            頂上 一等三角点
 
「蘇鉄山」登山認定書
蘇鉄山は、大阪湾に面し、幕末には黒船来航に備え御臺場おだいば(砲台)が築かれていた所で、明治12年(1879)に大浜公園として開放され眺望のよい築山として整備させたところです。
この蘇鉄山の一等三角点は、蘇鉄山の東南300mにあった御蔭山おかげやまの頂に近代地図作成のための基準点となる一等三角点が明治18年(1885)に設定されました。その後、御蔭山が削られ、昭和14年(1939)にこの蘇鉄山の標高6.8mの所に移設されたものです。
現在、一等三角点の設置されている山としては、日本一低い位置になります。かつてここから大阪城天守閣(昭和6年廃点)、生駒山、葛城山、俎石山、六甲山などが展望できました。 一等三角点が元あった御蔭山は、天保年間に港と水路浚渫により造られた山で、同時期に川浚えの土砂を積み上げてできた大阪の天保山とは兄弟にあたります。
「堺の大浜公園の歴史を振り返り、[蘇鉄山]の山名復活をめざしつつ、日本一低い一等三角点のある山に登頂するというロマンチックかつ健康的な登山活動を広める。」ことを会の趣旨として「蘇鉄山山岳会」が結成されています。事務局は、南海本線堺駅南口を出てすぐにある神明神社社務所にあり、蘇鉄山に登頂しましたと記名帳に記入し申し出ると「蘇鉄山登山認定証」が頂けます。
私が神社社務所をお伺いした時は、宮司さんが居られ「認定書はジョークですけど、どうぞ」と優しく応対して頂けました。これからもユーモアたっぷりにがんばっていただけたら、訪問される方も楽しくなると思いました。

堺浜地区「堺区匠町」に巨大工場群出現 シャープ堺新工場(現:堺ディスプレイプロダクト株式会社)


シャープ堺新工場・関連企業工場群(現:堺ディスプレイプロダクト株式会社)
【堺市役所21階展望ロビー 2009.05.03撮影】

2009年4月8日
堺市に建設中の液晶パネル新工場を10月に稼動
 シャープは、大阪府堺市に建設中の「21世紀型コンビナート」内の液晶パネル工場を、本年10月に稼動いたします。
 液晶テレビの世界需要は景況悪化から、一時的に踊り場を迎えたものの、今後、中国をはじめとする新興国を中心に、ますます拡大するものとみています。これらの旺盛な需要に対応すべく、現在フル操業となっている亀山第2工場に加え、かねてより稼動に向けて準備していた本工場について量産化の検証が完了したことから、操業を開始することを決定いたしました。
 本工場は、世界初の第10世代マザーガラスの採用に伴い、数々の革新的な液晶技術を導入しており、広大な敷地に進出する関連企業と連携し、21世紀型の垂直統合事業を展開いたします。
 当社は、今後この世界最先端の工場で、液晶パネルのさらなる性能向上とより一層のコスト競争力を実現してまいります。

■「21世紀型コンビナート」液晶パネル工場の概要
・ 稼動時期  :2009年10月(予定)
・ 着工時期  :2007年11月
・ 投入能力  :月72,000枚(稼動当初は月36,000枚)
・ 投資額   :約3,800億円(新工場の全土地代含む)
・ マザーガラスサイズ          :2,880mm×3,130mm(第10世代)
・ 主な生産品目 :40型・50型・60型クラスの大型テレビ用液晶パネル
・ 所在地   :大阪府堺市堺区匠町1番地
【出典:シャープ株式会社 ニュースリリース】

更新履歴
更新:2015年 1月02日 20:59:28 シャープ堺新工場の写真説明を現社名に更新
更新:2014年10月05日 17:45:34 今の堺旧港を掲載
作成:2014年 8月10日 18:44:02 再構築
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