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名所図会 巻1-03 堺名産

さかいの名産めいさん

さくらたい


堺浦さかいうら魚市うをいち

さくらはなさかりの頃ぎよしたるたいをいふ。あぢはひ也。当津の浜にて、毎朝しよぎよの市あり。和泉の浦々うらうらの海よりも漁舟ぎよしうこぎ来ッて、こゝにて市店いちたなかざる。螺貝ほらふいいちはじまりを知らせ、もの多く出来ッて、又、なにけい運送うんそうす。

今の堺魚市場

海船魚市跡(蛸市)


海船魚市跡(蛸市) 堺区柳之町西
江戸時代の堺の古地図をみると、大小路を界に北庄、南庄の浜寄に各々魚市があったことが伺えます。その古地図によれば北庄の魚市は柳丁ハマ「海船市場」、南庄は少林寺町紺屋丁ハマに「魚市場」と書かれています。
「海船市場跡」は、現在堺区柳之町西1丁の内川に掛かる「海山橋」の所に碑が立てられています。しかし、南庄の「魚市場跡」は、古地図にも書かれている内川の相生橋と相生小橋の間に書かれています。現在その場所と思しきところには、マンションが建てられていたり建材屋さんであったりしていますが、確証はありません。もう少しし探究したいと思っています。

堺魚市場


堺魚市場  堺市堺区栄橋町2丁4-1
古くから堺は京阪地域への魚介類の供給地として知られていました。特に毎朝開かれる魚市の盛況は、堺の一大名物であったと伝えられています。堺旧港を臨む「魚の市」の伝統は今も脈々と受け継がれています。
堺魚市場では近海物から遠洋物まであらゆる魚を取り揃え、一般の方への小売もしています。また深夜から早朝にかけて店開きする天ぷら屋、すし屋で新鮮な魚料理を味わうこともできます。

?(月に雋)煎魚いりもの

あぢたいゑびたぐひうしほにていりたるいふ。
あぢはにして、じつさかなもちゆ。

[夫 木]
  行春のさかひのうらのさくら鯛あかぬかたみにけふやひくらん                知 家

[俊秘抄]云、
なしといひ鯛の有けるは、堺よりきのふもてきたるなり。これは、経衡がいづみの國にしるところの、さかひといふ所有けるなり。よき鯛の常に見へけるに、此ごろれいの鯛やあるといひけるに、此ほどは見へずなんど申て、ほどへずとり出て侍りければ、したりけるとぞ、たはれける。

鉄炮てつはう


さかいの鳥銃てつほう鍜治かぢ
ある武士ものゝふさかいにて鉄炮てつほうかはんとて、多く見て、これは何ほどゝとへば、亭主あるじこたへて、これは三匁玉、これは五匁玉打候と答ふ。いやいやにあらず、は何ほどゝとへば、あるじ、はポンとぞこたへける。

又、鳥銃てつはうしよす。天文年中、南蠻なんはんの大せん筑紫つくしに来る。種子嶌たねがしま時堯ときたかといふもの、はんちやうしゆくしやもうの両人にあふて、鉄炮てつはうじゆつならふ。其後、当津たちばな屋又三郎といふ者、交易かうゑきのため種子嶌たねがしま滞留たいりうの時、鉄炮てつはうせいでんじゆす。こくの後多く作りて、こゝにてあきなふ。人皆ひとみな鉄炮又てつはうまたといふ。一せつには、永正年中こくより初て和泉の堺に渡す。其頃、さうはらぎよくりうばうといふ山伏やまぶしあり。鉄炮をさかいよりもとめて、北条ほうでう氏綱うぢつなけんす。氏綱の長男氏やす、当津の鍛冶かぢ國康くにやすよんで多くの鉄炮を作らしむ。又、あけ光秀みつひで鳥銃てつはう妙術めうじつを得たり。今、さくら町のほとりに鉄炮鍜治かぢ十九けんあり。其中に榎並ゑなみ勘左衛門公用を勤む。

今の堺鉄炮

種子島への鉄砲伝来は『鉄炮記』に記されている天文12年8月25日(1543)の出来事で、大隅国(鹿児島県)種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」と名乗る明の儒生が西村織部と筆談で通訳を行う。同乗していたポルトガル人(「しゆくしや」、「もう」)が鉄砲を所持しており、鉄砲の実演を行い種子島島主である種子島恵時・時尭親子がそのうち2挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させる。その頃種子島に在島していた堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田監物算長が本土へ持ち帰り、さらには足利将軍家にも献上されたことなどから、鉄砲製造技術は短期間のうちに複数のルートで本土に伝えられた。
「堺銃」の名で知られた堺の鉄砲は、先述の橘屋又三郎と根来の津田監物算長からその技術を教えられた芝辻清右衛門に始まります。

旧鉄炮鍛冶屋敷


旧鉄炮鍛冶屋敷 井上関右衛門家(内部非公開)  堺市堺区北旅籠町西1丁3-22
種子島に伝わった鉄砲の製法を橘屋又三郎などが堺に伝えてから、堺は日本一の鉄砲生産地になりました。現在、江戸時代の鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一の貴重な建築物で、市の指定有形文化財になっています。江戸時代から続く堺の鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗で、「元禄二年堺大絵図」にも記載されおり、わが国の町家建築としても最古の部類に属するとともに、堺を支えた鉄砲の生産現場が残されている建物としても貴重です。
大坂夏の陣の後、新たな町割が行われ現在に続く堺のまちが形成され、堺は鉄砲や包丁、織物などの製造業を中心に発達し商業のまちとしても成熟していきます。北旅籠町一帯、特に鉄砲鍛冶屋敷周辺は当時の面影を多く残し、切妻造、平入りの建物からなる当屋敷は、江戸初期の鉄砲鍛冶の生活がしのばれます。
また、鉄砲鍛冶屋敷の工房の内部の様子は、堺市博物館で再現展示されています。

鉄炮鍛冶射的場跡碑 放鳥銃定限記碑

鉄炮鍛冶射的場跡碑 放鳥銃定限記碑
南海本線七道駅前

火縄銃

堺市役所21階展望ロビーに展示されている火縄銃をご紹介します。



はうちやう


堺の名産萬の打物、世に名高し、特に石割いしわりはうちやう黒打くろうちなど、諸國に其名聞ゆ。

打物類をあきないゑ多くあり。所謂いはゆるくろ打、文殊もんじゆ四郎、かたはうちやう石割いしわりなどのめいあり。

今の庖丁鍛冶


堺刀司 (株)和泉利器製作所 

  
          堺刀司看板                     堺HAMANOミュージアム(堺刃物伝統産業会館)

堺刃物の発祥は諸説ありますが、世界最大の古墳仁徳陵は堺の東部丘陵地帯にあり、当時この造営は想像を絶する大土木工事であったものと思われます。その工事用の鋤、鍬などの土工具が沢山生産され、職人は集落をつくって住みつき、今では丹南(タンナ)や日置荘(ヒキソウ)などの地名として面影を伝えています。天文12年(1543年)ポルトガル人によって鉄砲、たばこが伝来しました。堺刃物の優秀な技術はここにも生かされて、戦国時代堺は鉄砲の有数の生産地となりました。
また、天正年間(1573年?)たばこの葉を刻むたばこ包丁が堺で造られるようになり、徳川幕府は堺極印を附して専売したために、堺刃物の切れ味と名声は全国各地へ拡がり、現在に至っています。

白粉おしろい

西にしのおしろいは、むかしより名高し。延宝の頃、此白粉おしろいせうに、なかのかど大納言執奏しつそうとして、和泉いずみのさくはんといふじゆりやうかうふりける。

金紗きんしや

元和年中、唐人たうじん、当津に来ッて、松屋、銭屋といふ両人に、金紗きんしや織様おりやうを相伝してより、今に織出せり。近代に及んても、むかしの織物、世上に散在さんざいして、松屋きれ、銭屋きれとて持弄もてはやすなり。

せんきぬ

これも唐舩にうの時、織人おりてを乗来りけるを、こゝにとゞめ精好せいがう織初おりそめしなり。

綿めんしま

堺の近郷きんがうより多く織出すを、諸國へ運送うんそうす。これを綿めんといといふ。又、さなひもふくろうちくみひものるいせいして、これも諸州しよしうあきなふ。

舳松瓜へのまつうり

みなみのせう舳松村へのまつむらより出るまくはうり也。あぢはひにして、毎歳まいさいくはんたてまつる。

白炭しろすみ

河州くはうのたきの山中にてやきたる炭を、こゝにて白くぬりちやのちうに用ゆ。

湊紙みなとかみ 湊壺鹽みなとつぼしほ


みなとむらは、堺のくはくくはいの南にあり。名産にはみなとかみ壺焼鹽を製してうるなり。

共に当津の南、湊村より出る。

はらののこぎり

昔、櫻町の西にいゑもなく、なりしところいゑを建て、のこぎりを打出せり。

おに煎餅せんべい

むかし、かいまへおに煎餅せんべいといふ。鬼一口おにひとくちといふえんによりて名付たり。

更新履歴
更新:2014年10月13日 11:14:25 今の堺魚市場、今の堺鉄炮、今の庖丁鍛冶を掲載
作成:2014年 8月11日 18:48:32 再構築
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