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名所図会 巻1-43 禅通寺

禅通寺ぜんつうじ

戎町の東にあり。禅宗。

開基かいき大聖たいしやう禅師ぜんし
いみなは宗然、あざな可翁かをうといふ。筑前の人にして、大應たいおう國師こくし南浦なんほの上足也。檀那だんなは、南朝なんてうの時、後醍醐帝ごだいごてい近臣きんしん西園寺さいをんじ左幕下さばくか諒空りやうくう、武臣右馬頭うまのかみ頼房よりふさ等也。嘉暦かれき年中、伽藍がらんことことく成就じやうじゆし、貞和元年四月廿五日、開基宗然入寂す。むかしは、建仁寺天潤庵の末派たり。回禄くはいろくわざはいの後、大德寺黄梅わうばい院春林和尚再興して、當時は黄梅院の末派なり。

今の禅通寺

堺市史 第七巻
第二編 神社、寺院、教會誌 第二章 寺院誌 第四節 禪宗
(一四)廢禪通寺

 禪通寺は長松山と號し、【寺址】寺址は戎之町東四丁にあり、【創建開山】臨濟宗大德寺末、大聖禪師宗然可翁の開山である。可翁は西園寺諒空、石塔賴房、梶原氏等を大檀越として嘉曆年中堂宇を創建した。初め建仁寺の塔頭天潤院末であつたが、天文八年の頃、大德寺九十八世黃梅院の開祖春林宗俶(永祿七年十二月寂)住持し、同二十二年正月には諸堂囘祿の爲め、再興に力め、方丈、佛殿を造營して中興開山と仰がれた。玆に於て寺院は遂に黃梅院に歸屬するに至つた。(堺禪通寺住持職之事、堺鑑中)次いで天正三年庫司火災に罹つたが、翌四年玉仲宗琇僧堂、佛殿、厨庫、山門等を復興した。(玉仲遺文)永祿十二年三月二日附彈正忠等の禁制狀を傳へ、【朱印寺領】又天正十四年七月豐臣秀吉は朱印狀を以て寺領六十石を寄せ、德川幕府に至つても舊の如くであつたが、明治四年正月上地した。【鎭守今池辨財天】鎭守今池辨財天は河内高安郡教興寺の辨財天と同作で、傳聖德太子作、開祖宗然草創の際鎭守として勸請したものであつたが、正平年中石塔賴房北莊下村領知の際、【辨財天移遷】今池の邊(舊向井村今池の北邊)に堂宇を造營して、遷座した。(今池辨財天緣(明治三十五年寺院提出書類))其後火災あり、堂宇及び尊像を失ひ、後年池底より尊像の手指を得、寬永年間京都の佛工に命じて新像を造立せしめたのを何時の頃よりか再び寺内に勸請せらるゝに至つたものである。例年陰曆正月七日には、尊體を供奉し、【祭祀】今池の舊址に祭祀を行ひ、晚に及んで歸還するを恆例とした。延寶八年堂宇を新營し恆例の祭祀もいつしか廢絶し、只境内の鎭守堂に祀り、之を今池辨財天と稱するのみとなつた。(堺大觀)寶永元年の記錄には、【舊塔頭】塔頭に曹源院、冝春院、德潤菴、正覺菴、友松菴、瑞泉菴、雲龍菴、富春菴の八坊を有し、(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)其中曹源院は前德禪桃林溪公の開基、冝春院はもと龍源菴と稱したが、中興前德禪陽月宗深(寬文四年正月八日示寂)之を冝春と改め、日抱〓公(寶永三年十月九日示寂)院號に改めた。(長松山禪通寺年鑑)維新後廢頽甚だしく、本堂、庫裏、納屋、門及び鎭守堂のみを存し、七百七十五坪の境域を有したが、【廢合】明治三十九年十二月少林寺町東三丁少林寺に合併せられた。(社寺明細帳)【墓碑】墓地には白幡氏範、小笠原氏親、堺奉行小笠原信用等の墓碑がある。

堺市史 第七巻
第一編 人物誌 第一章 黎明期(堺の濫觴より南北朝時代迄)
  (二)宗然可翁

 可翁字は宗然、筑前の人、夙に南浦紹明に參究して其印可を受けた。文保の初め、寂室元光等と共に元に渡り、天目山の中峰に參じ、留まること十年、嘉曆の初め歸朝し、(本朝高僧傳第二十七)筑前崇福寺の第十世に出世し、(增補正燈世譜)尋いで南浦に隨つて上洛し、建仁の第二十八世、萬壽の第十六世、南禪の第十八世に歷住した。(東山歷代、扶桑五山記)同年中に西園寺公衡、石塔賴房等檀越として、堺に長松山禪通寺を創立し、諸伽監を造營して、【禪通寺第一祖】宗然を請じ其第一世とした。(禪通寺記錄、堺鑑中、和泉名所圖會卷之一)幾程もなく弟子大用宗任に其席を繼がせて都門に歸り、後勅を奉じて南禪寺に遷り、晚年更らに建仁寺中に天潤菴を創建して退老した。(本朝高僧傳第二十七)【丹青を好み】法務の傍ら丹青を好み、其作品には多く寧一山の贊がある。興國六年四月二十五日(扶桑五山記には八月二十四日に作る)入寂した。(師守記十一)塔を毗盧といふ。勅して普濟大聖禪師の號を追諡せられた。(扶桑五山記四、增補正燈世譜、本朝高僧傳第二十七)本朝畫史には可翁良全と號す(或は良詮に作るとも)とあるも墨蹟祖師傳其他の書には多くは良全の名を載せてゐない。【然可翁と詮可翁の異同】或は宗然可翁は良詮可翁と別人で畫を作らぬと稱して居る。古畫備考には諸種の落款を蒐めて、海西人良詮之作、海西詮無事之筆、良全作等數種を載せて居る。今京都禪居菴所藏の僧友梅の贊ある出山釋迦像及び相國寺の所藏に係る寧一山贊の寒山拾得圖は、共に可翁の筆と稱するもので、朱文にて可翁の方印を捺して居る。又建仁寺所藏の十六羅漢には、良詮筆の墨書がある。然可翁と詮可翁と同一人であるか、將又別人であるかは、未だ明かでない。(日本書畫名家編年史卷二)

更新履歴
更新:2016年 1月24日 13:21:27 今の禅通寺に堺市史第7巻の記述を追記
作成:2014年 8月18日 12:29:58 再構築
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