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名所図会 巻1-07-02 大寺縁起

大寺おほてらゑん


大寺縁起 (巻下・念仏寺落慶供養の舞楽) 土佐光起筆

「大寺縁起」解説
「大寺縁起」は、上中下の三巻からなり、縁起筆写目録の一巻とともに国の重要文化財に指定されています。当神社の縁起は、天正の焼失により、元禄三年に再興され、各巻本文は、関白近衛基熈以下公卿及び宮門跡が筆写し、絵は土佐光起の筆になる。その来歴については、明治、大正の二解説がある。

明治の縁起解説
書大寺縁起、国宝、堺市、府社開口神社
此縁起所蔵の開口神社は、社記に神功皇后の詔により、塩土老翁を斎き祀らしめ給うふに、創まると云ひ、もと和泉国開口荘に鎮座せる延喜式内の古社なり、嘗て聖武天皇の御宇、僧行基この地に、一寺を創建して、之を密乗山念仏寺と称せしか、この寺、当社の神宮寺と為りしより、社寺を合せて、俗に大寺と呼はれ、又鳥羽天皇の天永四年、隣村原村に鎮座せる素盞嗚尊、竝に木戸村に鎮座せる生魂神を合祀してより、三村大明神とも云ひしか、後に宮寺を廃し、別名を止め、単に延喜式の神名開口神社と称し、明治三十五年、府社に列す。

大正の縁起解説
本地垂迹の思想に基き、開口神社及び其の神宮寺の由来を、説きしものにして、詳しき題目を、和泉国大鳥郡塩穴下條開口荘密乗山念仏寺三村宮垂迹縁起留記とも云ひ、上中下三巻に分つ、詞書は二十五段に分ち、近衛基熈を初筆とし、二十五人の手に成り、毎巻の末段は、何れも法親王の御筆なり、画は全部土佐光起の筆にして、詞書の各段に応して、之を描き、毎巻の外題は、常子内親王の御筆なり、此画巻は、元禄三年に成り、近衛基熈より開口神社に納め、東山天皇、中御門天皇、桜町天皇、後桜町天皇、光格天皇、仁孝天皇、孝昭天皇之を禁中に徴して、展覧あらせ給ふ。
【注】この縁起解説は、カタカナ書きされていましたが、ひらがな書きに書換えしました。

一、巻上   「大寺縁起 上」

原文
語注
和泉州大鳥郡下條開口莊密乘山念仏教寺三村宮垂迹本地縁起留記
巻上


(第一段)
 夫当寺鎮守垂跡の御神三村宮ハ、往昔伊弉諾尊、伊弉冊尊の二神、天のうきはしのうへに立して、ともにはからひて、底つ下に豈国なからむや、との給ひて、すなはち天の瓊矛をさしおろして、さくり給ひける、其ほこ鋒より、滴瀝れる潮こりて、嶋となりぬ、又もろもろの国を、うみ給ひ、よろつの物を、産みたまひて、天かしたしろしめしける時の御事にや、筑紫日向の国小戸の橘の口(木に竟)原の塩潮にて、御祓し給ふ御時、あらはれ出給ひし御神、底筒男命、中筒男命、表筒男命、これすなハち注1吉の御神、塩土の老翁なり、又彦火々出見尊の御時、龍宮への御しるしへのまうけ、偏に此御神の御功なりとそ、凢此森に居住して、無量歳をふれは、白髪の貌を示現す、と託宣したまふ、又神功皇后、三韓御退治ましましける折ふしも、御力をそへ給ひ、大将軍として、たちまちに、異国の敵戎をたいらけ、一朝の安全、持国利民の霊神、とゝなへ奉られ給ふ、御出陣の御時、此森より十町はかり東にて、方違の御祓し給ひし其処、今に社ありて、五月三十日、諸人参りもうてぬ
注1 住吉の大神塩土老翁なり、住吉三神と開口の塩土老翁とは、同神であるとのこと。またこの二神瑞森に影向せらるるとは、現社地創祀の根拠とするもの。

(第二段)
 さて異国を、おほしめすまゝにしたかへさせ給ひ、御帰朝にも供奉ありて、此和泉の浦、芦原の浜より、御舟九艘にて、入御し給ふ、九艘の小路とて、名を残せり、百々川の水上の松に、御舩をつなき給ひし所、舳松といふ、御舩よりあからせ給ひ、御馬、御甲を神にいはひありて、馬の堂、甲の明神とて、ちいさき社あり、御鋒を埋ミ給ふ所、これより六七町南のかたに、鋒塚あり、

(第三段)
 又飯匙の池と申ハ、昔彦火々出見の尊宝珠を壺に入て御埋ミふりける、其後、神功皇后、異国より御帰朝ありて、彼阿度部の磯良を使として、めしよせたまひける、干珠満珠の二つの珠を、又此池に埋ミ給へり、三韓御退治の御事も、まつハ此二の珠のちからとかや、されは、今に年毎のミな月つこもり、攝津の国住吉より、大明神御幸ありて、此池のほとりにて天地一円相とて、貴き御祓あり、高野大師大明神と御対面ありて、此境小所たりといへとも、末代にいたるまて、冨貴地たるへし、とおほせられけるも、まことに此珠の此池にある故とかや、又宿注1居といへるは、大明神年毎に、御輿をよせさせ給ふ折ハ、かならす、御輿やとり、かりの宮ゐをしつらへは、宿居と申ける、又いつの比よりか、宿院とそいひけらひける、つねに御安坐の宮ゐハなし、其日の祓の具なとまて、納め置ける宝蔵、鳥井、玉垣のみ有りけれとも、まことに清浄の霊地なり、
注1 宿居、大阪市の住吉大社の神輿堺に渡御せられたとき、旅の宿りをせられたところとの考へ方から出た説である。後ち宿院といつた。

(第四段)
 凢住吉大明神とあかめ奉りけることは、此注1森より攝津国住吉へ御影向ありてより、住吉大明神とあかめ奉りける、当所ハ是和泉の国塩穴下條開口の荘なり、延喜式にも、和泉の国の神名に開口の神社としるせり、しかるを原、木戸の人民、よりあつまりて、三村宮と渇仰し奉り、荘号をも三村とそ申ける、蓋当所ハ御神影向の濫觴として、攝津国住吉の奥の院といふ事分明なるかな
 抑垂跡鎮座の御有様をあふきミれは、彼住吉玉手の岸にハ、一十五社甍をならへ、此芦原注2森には、一十三社光りをつらね給へり、十三社とハ所謂影向の三神、先ハ当社大明神、祗園天王、生玉の明神なり、勧請の三神ハ、国常立尊、正八幡宮、春日大明神、神功皇后、玉依姫およひ如意大明神、蛭子命、八祖明神、大神宮の内外なり、今しはらく、影向の三社のおほむねをあくれは、往時大明神託宣し給ひて、吾ハ是都率の内院、第三の高貴王大菩薩なりと、マコトにおもんミれは、内には、正しく常寂の室に安住し給ひ、外には、恒に真金の蔵を開与し給ひぬ、あかく其幽績を、たつね究むれは、遮那覚王の印、三世常住の妙壽を現し給ふ、又牛頭天王は、医王薄伽の化現にて、理知教の三の薬をほとこし、業鬼大の衆病を療しける、生玉の明神ハ、元より宝函を持し、真俗の栄喜をあたへ給ふ、麁乱荒神の変化、すミやかに灾禍を転し、かへりて福を成し給ふ、国常立の尊ハ、其躰乾坤にみち、其万像に通達し給へは、化度利生にもるゝ物なし、八幡大菩薩ハ、朝家鎮護の御ちかひ、餘にすくれ、国土憐愍の御めくミ、いとふかし、本地阿弥陀如来なれは、一たひ念し奉れは、衆罪を滅す、現世の利益、後世清浄土のたのミ浅からす、春日大明神ハ、天地ひらけてより、貴賤安穏、君臣上下の品、もつとも此御神の御威力也、方便同居の場にハ、利他の法水をそゝき給へり、いつれの人か、其妙なる御いつくしミにもれ、誰か其渇仰をなさゝらんや

注1 瑞森より攝津国住吉へ御影向、此の説話は、早くから存在した土俗信仰である。当社と住吉大社との交渉は、大社の本住吉よりの移転説や、同大社の神崎川下流鎮座、あるいは大阪城近くの天満橋付近鎮座などの学説や地方説話などを検討したうえで、考へるべきこと、思はれる。また特に住吉神宮寺以下の仏者の説も、考へて見なければならないことである。

注2 瑞森には一十三社、住吉松葉大記引用の住吉勘文に見えている。僧家の説と思はれるも、中世の当社輪換の荘大な構成美が想定される。

(第五段)
 爰に人皇三十二代用明天皇の皇子、推古天皇の摂政、欽明天皇の御孫、敏達天皇の御甥、注1徳太子のゝたまはく、吾ハ是随類化現の粟散国の小王身なり、弘誓海のことく、漫々としてほとりもなく、沈々として底もなし、たとひ却石を歴るとも、たれか思議することをえらむ、我むかし衡山修行のとき、達磨すゝめて、はやく海東に誕生す、託胎の夜、金色の僧、夢に来り、つけていはく、我に救世の願あり、しはらく后の腹にやとらん、きさき答ての給はく、誰そや、僧のいはく、我は救世菩薩也、家ハ西方にありとて、口中におとり入たまふ、誕育の後童子のたはふれましはり、難波の御館にあそひます、七年をへて、百済国の経論数百巻披見既におはれり、こゝに守屋の臣ふかく逆臣をふくむて、仏像をそこなひやふり、難波になかし捨、経巻をやき、灰燼となさむとす、太子かなしミなけき給ひ、守屋をうたむとかたく誓願をおこし、四天王の像をきさみ、四王の箭をはなたしむ、誓願むなしからすして、守屋の胸にあたりて、たおれて首地に落、其後猶守屋か残属ありて障(口)をなさんとす、太子あまねく、日本国中の和光垂跡の神力を、たのミおほしめして、広く大小神祇に祈り給ひけるか、殊に当社明神ハ、敵戎退治のりやくあらたなるにまかせ、当社に祈誓し、諸法の本初たる所の大毘盧遮那如来の尊像一軀、ならひに四天王の像を彫刻し、又御所持の御琴、笛(笛ハ号妙法)を奉納ましましける、されは離鴻去鳫のさへつり、龍吟魚躍の啼まても、浅きよりふかきにいたりて、おもへはミな法性の真理なる者歟、しかれは切利三十三天の快楽ことこと弥陀の四十八願の荘厳にも、管弦これを先とす、簫、笛、琴、箜篌、琵琶、鐃銅、鈸其名まちまちなりといへとも、是ミな、中道の方便なれハ、本有の妙理ひとつなるへし、それより、いよいよ仏法流布の国、となれる事も、日域垂跡の御恵ミ、殊には当社明神の御ちからなるものをや
注1 聖徳太子、厩戸皇子といゝ、用明天皇の御子である。推古天皇の摂政となり、四天王寺を建立し、若草寺、法隆寺等を創建せられた。物部守屋退治のとき、当社に祈り、その報賽として、所持の琴、笛を奉納し、かつ自作の四天王像一軀を寄進したと伝えている

(追筆)
和泉国大鳥郡境津密乘山大寺再興縁起上巻
 御施主近衛関白左大臣基熈公
              本願主    正秀法印
              勧進沙門   西 蓮
  元禄三年十月十五日


二、巻中   「大寺縁起 中」

原文
語注
和泉州大鳥郡下條開口莊密乘山念仏教寺三村宮垂迹本地縁起留記
巻中


(第一段)
 又人皇四十五代聖武天皇の御宇、此国の沙門注1基上人ハ、文殊大士の再誕、日域無双の和尚、済度やゝ無辺にして、あまねく諸国の境界にわたり、利益はなはた広大にして、偏に四生の群類をすくひ給ひ、はやく天顔に謁して、諸悪莫作のをしへをひろめ、衆善奉行の事をしめし、終に仏法の棟梁となり給へり、聖主御帰依あさからす、万乗首をかたふけさせ給へは、一天掌を、あハするものか、彼上人ハ当国大鳥郡の住人、高志の宿祢貞知か子、其先ハ、百済国王の胤なり、母ハ家原の莊、蜂田の薬師女是なり、天智天皇七年に誕生し給ふ、悲母身まつしくて、たまたま産たる子を見れは、普通の赤子にハあらす、かくて心太に似たり、母あやしミおそれて、土の鉢に入て、居所の西の方に有ける榎の俣にこれを置、其日一人の修行者來りて、宿をかり、一夜をふる程に、夜半はかりに、彼木のうへに、蜂の啼かことくして、物いふ声きこえけるあいた、心をしつめ、耳を欹てきけは、妙なる小音にて、大仏頂の咒を誦する、と聞なして、修行者あやしミ、行よりて見れは、器の中に、かたち端厳の児ありけり、とりて養育扶持するほとに、漸く成人し給へり、といへり
注1 行基、俗姓高志氏、母系ハ蕃別、大阪府、もと和泉国大鳥郡蜂田郷家原の人、天智天皇六(六六七)年に生れ、義淵、道昭について、仏堂を専念修行した。弘法のかたわら、治水架橋に尽して、民衆の信仰を得た。のち東大寺大仏の造顕に協力し、天平勝宝元(七四九)年菅原寺東南院で、往生した

(第二段)
 既に七八歳はかりに、成給ひぬれは、隣家のわらんへと伴ひては、をのつから、仏の道のことハりを教へ、有為転変のかりなる無常を、さとらしめて、浅きよりふかきに、すゝめ入給へり、心ある幼童は、漸に、厭離のこゝろをもよほしける、或は牧に出て、牛馬を飼ける童部を、すゝめては、爪木をとりて、堂を立、泥にて仏をつくり、石をひろひて、塔廟をミ、砂の上に、仏像を書て、もろともに、たはふれ給ふ時もありけり、木櫁并餘材、甎瓦、泥土等、若於曠野中、積土成仏廟ともいへり、又は乃至童子、戯聚沙為仏塔、如是諸人等皆已成仏道とも説給へり、此縁をもて、遂に仏の道に引入し給ふ事、あハれにこそ侍れ、彼里の人々、行基丸は、念比なるものなれは、このむらの牛馬をは、一人に預くへしといひけれは、数十疋うけとりて、牧ひ給ひけり、山路に、日すてにくれて、野寺の鐘もつけわたり、をのをの家路にかへるころなれとも、彼牛馬は、但念水草のこゝろふかくして、おとろくけしきなき時は、たかきさかひにのほりて、鞭をうちふり給ひけれは、是を見て、おなし時にはしりて、をのをの帰りけり

(第三段)
 十歳はかりにもなり給ひて、悲母にいよいよ、孝行のこゝろさし、いと深ふして、ねん比に、つかへたまひけり、早苗とるころには、母にかはりて、田を植たまひけるに、餘の人の十人しても、うへえぬ所々の、おほくの田共を、一日のうちに、植渡したまひけるとなむ

(第四段)
 かくて天武天皇十一年、十五歳にして、出家し給ひ、薬師寺に居して、新羅の慧基を、師として瑜伽唯識等を修学し、又義淵僧正にしたかひて、智證を益し、持統天皇五年、光大法師を、和尚として、二十四歳にして、受戒を給へり

(第五段)
 或時行基おもへらく、久しく大小乗を学して、権実の教を究む、但し智解を増のミにして、生死の一大事におゐて、何の益かあらむや、夫出離生死の道、其行一にあらず、然に末代に縁あるは、西方の要路にはしかす、たまたま弥陀の本願にあへり、往生何かうたかハん、しかるに盛なる者、なを残日やゝたけて、小水の魚にひとし、露明の時として、減する事を覚かす、おとろへたる者、又屠所の羊におなし、歳月はむなしくすきて、無常の歩々に、ちかつく事をしらすと、故に夜は夜もすから、郡郷の境をめくりて、高声に仏名をとなへて、長夜迷妄の眠をさまし、昼ハ終日に、諸人の門におもむひて、浄土の文理を講讃して、往生浄刹の安心をさつけ、愚昧のともからを、利益し、終に慶雲元年より、山林を棲として、禅定をのミ修し給ひぬ

(第六段)
 又四十一歳より、生駒の仙房に住して、ますます悲母に、孝行をつくし給へり、御はゝも、臨修正念にして、和銅三年正月十五日、西に向ひ、往生の素懐をとけ給へり

(第七段)
 養老元年御歳、五十一にして、朝廷に陪(侍)り、本朝の中に、僧院四十九所、を建立し、其外布施屋并、に川橋堀溝池井湊等を設けて、諸国の群類をすくひ、此外、三国の絵図を、書あらハして、国土にひろめ、秋津嶋の男女の数を、しるし給へり、実に大聖の權化にあらすむは、いかてか如此の不思議を、成し給はんや、天皇、はなハた敬重し給ひ、数多たひ、聖人の住坊に、行幸ありて、御結縁ましまし、田園許多、よせさせ給ひけり

(第八段)
 又東大寺御供養の日、上人阿伽器に、花を盛り、難波の海上にうかへ給ふに、さらにみたるゝ事なくして、西をさして行に、はるかに小船、うかひ見え来れり、漸くちかつきてみるに、天竺の婆羅門僧正也、阿伽器、彼舩に飛うつるに、又乱るゝことなし、諸人奇異の思をなす、梵僧、是ハ我を迎る上人の使なり、と微笑し給ふ、則舟よりあかりて、上人に対面し、たかひにかしらをうなたれ、手をとりて、むつましき事、旧識のことし、上人御歌あり
  霊山の、釈迦の御前に、契てし、真如くちせす、相見つるかな
梵僧御返歌
  伽毘羅会に、ともに契し、甲斐ありて、文殊の御顔、あひミつるかな
此時よりして、上人を文殊の化身なり、と世にはしりけり


(第九段)
 天平十六年の春、諸国を行化し給ひて、或時、此故国に帰り給ひしに、此浦の漁人等、をのをの軽慢をなし、御膳のために、魚を奉りたりけるに、上人是を食しつくし、すなはち吐出し給ふに、須叟に変して、生魚となりて、水にうかひてあそひぬ、浦の人とも、おとろきうやまひ奉りて、をのをの首をたゝき、手をつかね、ねかはくは、菩薩われらか罪をゆるし給へ、と渇仰し奉りぬ、まこと、此地商売のちまた、魚塩の津、上人の慈愛にあらすむは、誰か此蒼生を利し、此愚頑をさとさむや、早く此所に一つの仏地をひらき、国土の群類を、済度し給へ、とあなかちに、請し奉りけれハ、上人機縁時いたりぬ、としりて、則当社大明神にまうて給ひ、垂跡和光のよそほひをたつね、本地内證の妙なる事を、祈り給ひけるに、大明神告ての給はく、いれりや、吾は是医王善逝の化現、此国の本主として、異類の衆生をあはれミ、鎮に四生の浮沈をすくふ、はなく十二の大願をおこし、日夜に済度のあまねからむ事を、思ふと云云

(第十段)
 爰に上人示現のあらたなることを、たとひ、御手つから、注1師如来の尊像を、刻彫し奉り、はしめて此所に安置し、仏地と成し給へり、扨事を朝家に奏し、申させ給ひけれは、天皇、叡感きはまりなくして、御帰依浅からす、天平十七年、大僧正に任せしめ、輦車を下し給はりて、乗なから宮中に、出入し給ひける、
注1 薬師如来の尊像安置、社内の瑞森薬師の起源説話で、今に薬師堂として、信仰を伝えている

(第十一段)
 天平十八年二月八日、大会をまふけ、開眼供養し奉るへきむね、おほせ下さる、導師ハ則行基上人、請僧百口也、法昧をさゝけ、音楽を調へ、勅使叡願の趣を宣るに、諸人歓喜して、帰敬せすという事なし、此夜、本尊眉間より、光りをはなちて、一夜の間寺内皆金色なり、

(第十二段)
 又供養の夜、大明神まのあたり、出現ましまして、上人と数刻の御法談あり、勅使又、其御声をのミ聞て、敢て御神體を、拝し奉らさる事をなけき、三業をしつめ、一心に帰依のおもひをなし、五躰を地になけて、祈りしかは、漸霧はれて、秋の月のあらハるゝかことく、おかまれさせ給ひぬ、勅使都に帰りて、一々天聞に達しゝかは、天皇、御信感あさからす、やかて御堂を建立し、社頭再興あるへし、とかさねて、勅使をもって、事のよしを、申させ給ふに、御神殿鳴動して、しはらくやます。又新造の薬師如来の尊容より、異香薫して、奇特をあらはせり

三、巻下   「大寺縁起 下」

原文
語注
和泉州大鳥郡下條開口莊密乘山念仏教寺三村宮垂迹本地縁起留記
巻下


(第一段)
 同四月十日、御堂造営の事始あり、十二日、社頭戌亥のかたに、御倉をかまへ、御神宝を納め、仮殿をたてゝ、御正體をうつしいれれ奉る

(第二段)
 上人、官使、をのをの詔勅を奉りて、日夜におこたりなくして、不日に社頭、拝殿、金堂、講堂以下堂舎のかまへ、悉く成しかハ、十九年八月朔日、忝くも、天皇行幸、供養あるへしとて、数曲の舞曲を奏し、百二十口の浄侶を嘱せらる、御神宝等遷宮の儀則、のふるにいとまあらす、此日、天皇みつから、般若心経一巻を書写し給ふて、神殿に納め奉らせ給ふ、山海の珍味、数をつくして備へさゝくる中に、茄子ひとり、心あるに似て、数日をへて、萎む事なし、同十二日、金堂入仏、十四日、御神殿にして、神楽を奏し、庭火を焼、是時、又社頭震動す、天皇いよいよ、御信心驅き、忝くも、御手つから、玉筆を染させ給ひて、山を密乗と称し、寺を念仏と号し、永く此伽藍におゐて、聖廟安穏、宝祚長久、国土太平、万民快楽を、いのりたてまつるへきむねの、勅願の金札をおさめ、大鳥、和泉の二郡を、寄附せさせたまひぬ

(第三段)
 天平二十一年、孝謙天皇、上人を御召請ありて、菩薩戒を受させ給ふ、此上人ハ、聖武天皇、中宮并皇女三代の御戒師たるに依て、大菩薩の尊号を、まいらさせ給へり、かくて天平勝宝元年二月二日、上人、菅原寺の東南院におゐて、右脇にして御入寂あり、御年八十一、此時、御遺誡の文、又一首の御歌あり
  かりそめの、宿かる我そ、今更に、物なおもひそ、仏とそなる


(第四段)
 又人皇五十代桓武天皇延暦二十三年、注1野大師、御年三十一にして、求法入唐のため、海上の安全を祈り、住吉ならひに当社大明神に、参籠し給ひけるに、汝ハ是第三地の菩薩、我朝に託生して、三密の教法をひろめ、国家を利すへし、我汝と同躰一心なるか故に、はやく彼無二の真教を、此国に伝ふへき也、と云々、大師示現のあらたなるをよろこひ、みつから大明神の御影を、写しとめ給ふに、大明神又、大師の御姿を、書とめさせ給ふて、たかひに一躰分身のよそほひを、末代にしめし給へり
注1 高野大師、高野山金剛峰寺の開山たる弘法大師のこと。香川県もと讃岐国多度郡の人、宝亀五(七七四)年に生れ、延暦二三(八〇四)年入唐し、真言密教の金胎両部を覚えて帰朝した。次いで諸国を教化しつゝ、高野山を開き、京都の東寺に入り、承和二(八三五)年高野山で入滅した。

(第五段)
 又大師御帰朝の後、ふたゝひ当社大明神に、参籠し給ひけるに、独りの老翁、其かたち、はなはたよのつねならす、告ていはく、吾は是此地の主なり、久しく此所に住して、多くの群類をすくひ、もろもろの障難をのそく、吾を名つけて、麁乱荒神とす、しかれとも、いまた秘密の法昧を、嘗る事なし、願はくハ、和尚此地をして、真言秘密の道場、となし給へ、吾鎮に守護の神ならむ事をこひねかふと、是に依て、大師、事の由を、朝家に奏して、宝塔一基を建立し、往時、聖徳太子彫刻し納め給ふ所の大日如来を、安置し奉り、永く鎮護国家の真言の道場、と成し給へり、又此所の影向石、といへるは、是則大明神と大師と御対面ありし時の、御所座の石なるとかや、寔に彼雙輪触石の利益のことき、豈むなしからんやされは此住吉の松といへるハ、彼高野飛行三鈷のしるしの一本、と全く異別ならさる事を、習ひ伝へ侍る

(第六段)
 又人皇六十二代村上天皇天暦五年、注1也上人、当社に参詣し給ひ、通夜念仏行道ありしに、大明神ならひに行基菩薩、上人の行に、感応ましまして、まのあたり、化現ありけるとかや
注1 空也上人、光勝といゝ、幼少より、遊歴を好み、山野に修行し、市井に、南無阿弥陀仏の名号を、唱えて、衆人を教化した。天暦二(九四八)年、比叡山に登り、大僧正となる。同五(九五一)年京師疾疫流行するに及んで、十一尺(三米餘)の十一面観音像を刻み、六波羅蜜寺を興して、これに祈つて顕効があつた。後ち奥羽を教化し、晩年、京の西光寺に在住して、天禄二(九七一)年往生した

(第七段)
 又此瑞森の丑寅の方に、大きなる楠ありて、長さ十餘丈なり、幾年月を経たり、としる者なし、又此木を、をかすもの、をたやかならす、つねに異人ありて、此木のうへに住し、此所の不祥を払ひ、仏法をまもる、といひ伝へたり、昔の人ハ、其名を三村坊、とそいひけるに、唯下郎の申やすきまゝに、ミうらむ坊とそ申ける


(絵)
(絵ノ終ニ)
  「土佐左近将監光起入道
           行年七十四包含注1昭和筆 印印」

注1 常昭、土佐光起の法名、光起は土佐光則の子、元和三(一六一七)年十月に生れ、天性絵を画くこと巧みで、光信依頼衰微していた土佐派の名声を快復し、光長、光信とともに、土佐の三筆といはれた。元禄四(一六九一)年九月二十五日七五歳で死んだ(日本書画骨董大辞典、日本歴史辞典、大日本人名辞書)

(第八段)
 今此寺社ハ常の儀にあらす、霊場をいはゝ、仏陀感応の地、神明垂跡の砌なり、凢此橋原境の浦に、仏寺多しといへとも、ひとり吾寺のミ餘寺に秀申たるに依てたゝ大寺といふにや、大檀那聖武皇帝は、観音の化現、開基行基大菩薩ハ、文殊の垂跡、宗祖弘法大師は、弥勒菩薩の分身也

大寺縁起巻下終


(筆者)
上巻
関白左大臣注1原基熈公
権大納言注2原資熈卿
前権大納言注3原伊季卿
刑部卿源惟庸卿
入道二品注4助親王

注1 藤原基熈、関白近衛基熈のこと、基熈は尚嗣の子。母は後水尾天皇の皇女照子内親王。慶安元(一六四八)年三月に生れ、累進して元禄三(一六九〇)年正月関白となる。同十六(一七〇三)年正月辞任するまで太政大臣であつた。享保七(一七二二)年九月十四日七十五歳で死去した。(公卿補任、知譜拙記)

注2 藤原資熈、中御門資熈のこと。資熈は権大納言宣順の子、寛永十二(一六三五)年三月に生れ、万治元(一六五八)年参議となり、権中納言を経て権大納言に昇進、宝永四(一七〇七)年八月二十一日七十三歳で死んだ。(公卿補任、知譜拙記)

注3 藤原伊季、今出川伊季のこと。伊季は公規の子、宝永五(一七〇八)年内大臣となり、翌六年二月二十六日五十歳で死んだ。(公卿補任、知譜拙記)

注4 堯恕親王、堯如法親王のこと。後水尾天皇の皇子、母は新広義門院園基子、寛永一七(一六四〇)年親王となり、八月出家、寛文三(一六六三)年天台座主となり妙法院門跡となる。元禄六(一六九三)年八月同院を退き同八(一六五五)年四月十六日五十六歳で死なれた。(本朝皇胤紹運録、雲上御系譜)

中巻
右大臣注5原兼熈公
前権大納言注6原光雄卿
前参議藤原実種卿
前中納言藤原基時卿
参議右兵衛督藤原隆慶卿
参議藤原経尚卿
従三位藤原員従卿
宮内卿藤原保春卿
右衛門督藤原雅豊卿
右衛門佐藤原光忠朝臣
入道二品注7證親王

注5 藤原兼熈、鷹司兼熈のこと、兼熈は関白房輔の子、万治二(一六五九)年に生れ、累進して内大臣、右大臣、左大臣を経て、関白となる。享保十(一七二五)年十一月二十日六十七歳で死んだ。(公卿補任、知譜拙記)

注6 藤原光雄、烏丸光雄のこと。光雄は資慶の子、権大納言となり、元禄三(一六九〇)年十月二十七日四十四歳で死んだ。(同上)

注7 尊證親王、青蓮院宮尊證法親王のこと、親王は後水尾天皇の皇子、母は新広義門院園基子、慶安四(一六五一)年二月十日誕生。万治三(一六六〇)年五月親王となり七月出家、寛文七(一六六九)年青蓮院門跡となり、天台座主となる。元禄七(一六九四)年四十四歳で死なれた。(本朝皇胤紹運録、雲上御系譜)

下巻
内大臣注8原家熈公
権大納言注9原方長卿
権大納言注10原淳房卿
権大納言注11通誠卿
参議藤原意光卿
従三位藤原共方卿
従三位平行豊京
入道二品注12敬親王

注8 藤原家熈、近衛家熈のこと。家熈は関白近衛基熈の子、母は後水尾天皇の皇女常子内親王、寛文七(一六六七)年に生れ、貞享三(一六八六)年累進して、内大臣となり、右大臣、左大臣を経て、宝永四(一七〇七)年十一月関白となる。正元(一七一一)年太政大臣となり、元文元(一七三六)年十月三日七十歳で死んだ。(公卿補任、知譜拙記)

注9 藤原方長、甘露寺方長のこと、方長は嗣長の子、兄冬長の死により、その家を継いだ。権大納言となり、元禄七(一六九四)年二月二十日四十七歳で死んだ。(同上)

注10 藤原淳房、万里小路淳房のこと、淳房は雅房の子、宝永六(一七〇九)年十一月十日五十八歳で死んだ。(同上)

注11 源通誠、久我通誠のこと。通誠は権中納言広通の子、母は伏見宮貞清親王の女、初め名を時通、次いで通縁、通規と改め、さらに通誠と変へた、累進して内大臣となり、享保四(一七七九)年七月七日六十歳で死んだ。(同上)

注12 真敬親王、一乗院宮真敬法親王のこと、親王は後水尾天皇の皇子、母は新広義門院園基子、慶安二(一六四九)年四月二十七日誕生、万治元(一六五八)年親王となり、翌二年出家、尊覚法親王の資となり、興福、清水両寺別当となる。宝永三(一七〇六)年七月七日五十八歳で死なれた。(本朝皇胤紹運録)

外題
無品注13子内親王

(奥書)
原夫往昔伝来之縁起、天正年中遇畢方之災矣、寺僧思再成、嘆不能復于古、幸以有類簡、所発継絶之志也、今依殿下厳命、染二十五人之各翰、多年之願望、已足矣、時其至者哉、故請記此旨趣、不遑辞、蕪楮先生為之筆而己
  元禄庚牛孟冬乙丑
    従四位上行式部権大夫兼権少納言侍従文書博士
    大内記注14原朝臣長量

注13 常子内親王、親王は後水尾天皇の皇女、母は新広義門院園基子、寛永十九(一六四二)年三月九日誕生、寛文四(一六六四)年十一月近衛基熈に嫁し、能筆を以て知られた。元禄十五(一七〇二)年八月二十六日六十四歳で死なれた。(同上)

注14 菅原朝臣長量、高辻長量のこと、長量は権大納言東坊城恒長の子、高辻権大納言豊長の嗣となつて高辻家を相続した。文章博士となり、元禄七(一六九四)年蟄居、翌八年六月六日三十四歳で死んだ。(公卿補任、知譜拙記)

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作成:2014年 9月 7日 11:26:04 再構築
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