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名所図会 巻1-14-02 向泉寺縁起

向泉かうせんゑん

向泉寺は明治四年(1871)に廃寺となり、遺存する史料は方違神社にのみ残されています。方違神社に遺された「向泉寺縁起」(享保七年 1722・書写)に伝えられることが堺の地誌「堺鑑」、「和泉志」、当サイトのメイン・テーマの「和泉名所図会」や「堺市史」などに記述された向泉寺史の原書であると思われます。「向泉寺縁起」そのものも向泉寺が火災に逢うたびに焼失しており、旧記と口伝をもとに伝えたものを書写したものです。
「向泉寺縁起」に記される、向泉寺創建時の状況や行基菩薩との関わりは、行基研究の史料とされる「続日本紀」や「行基年譜」には記されておらず、向泉寺の寺号も見られません。
現在、「向泉寺縁起」の記述を実証できる確かな資料は見つかっていませんが、ここに掲載します。

泉州せんしう大鳥郡おほとりのこほり三国山みくにさん遍照光院へんせうくわうゐん向泉寺かうせんじ縁起ゑんぎ

解読文
語注
 大道だいだうなく神応じんおうはうなし。所以ゆゑに用ひてきはまらず、感じていよいよ出づるなり。ゐき・本邦、山け水開き、霊神れいしんしよう載籍さいせきに伝ふる者、もくせつする者、しげからずと為さず。三国山向泉寺は聖武天皇勅願ちよくぐわんの道場にして、ぎやうさつかいびやく練若れんにやなり。其の地は往昔わうじやく石津いしづはらに接し、峯高く谷かそけく、白雲こずゑぢて青煙ふもとに籠り、玄鳥げんてう猛獣まうじう、常にせいする所なり。のをの命・方違かたたがへの大神・向井の王子・王仁わにの大神、並びに皆垂迹すいじやく卜祠ぼくししたまふ。代々の天子、此の地に臨幸りんかうしたまふこと、熊野くまの御幸ごかうの記などに見ゆ。上古の歌人の三国山の詠、万葉集まんえふしふに出づ。於是ここに、仁徳天皇、みゆきして陵地りやうちを定めたまふに、鹿、走りてたふれ死し、百舌鳥もず、耳より出でて飛び去ることあり。これより此処を百舌鳥の耳原ととなふる なり。
大道?すぐれた教へ。具体的には仏教。
神応?ふしぎな反応。「神」は霊妙の意。
聖武天皇?金光明経を諸国に頒ち、東大寺大仏を鋳たりするなど、仏教に熱心であったが、向泉寺との関係は旁証史料がない。
薩埵?菩薩とゝ。「菩提薩埵」の略。
練若?蘭若ともいふ。寺院。
青煙?霞。
方違の大神?「方違宮縁起」などにはこの神名を使はれてゐない。
垂迹?救ひのすがたを現はすこと。仏・菩薩や高徳の聖者などが衆生を救ふために仮りに姿をとってこの世に現はれること。
熊野御幸の記?後鳥羽院の行幸記録で藤原定家の筆になる。
三国山の詠?三国山木ぬれに住まふむささびの鳥待つがごとわれ待つ痩せむ(「万葉集」巻七-一三六七)福井県の三国山とする説が普通。
仁徳天皇?この記事、「書記」仁徳天皇六十七年条、「方違宮縁起」にある。
 牛頭ごづ天王てんわうやしろのをみこと、此の地にしづまりたまふこと久し。所謂いはゆる熊成くまなりみねよりつひの国に入るとは即ち此の地なり。ある日根ひねひ、又の国とふ。東南たつみで、西南いぬゐよりのぞゆゑ日根ひねといふ。又此のみことはじめ青山あをやま殺伐さつばつし、今は播生はせいせしむ。生長せいちやうもとなるがゆゑに、の国とふ。人王じんのう第十だいじん天皇てんのうぎよ都鄙とひさいくわいしばしげんじ、こくみのらず、疫疾ゑきしつ流行りうかうし、諸国しよこくみんばうする者多し。天皇てんのうをこれをうれひ、大諸隅おほもろすみみことのりしたまはく、「頃年このごろ陰陽いんやう錯乱さくらんし、寒暑かんしよじよしつし、疫災えきさいしきりに起り、百姓ひやくせうりうす。れ恐らくは天神てんじんとくにくみ、此のたたりをす者ならんなんぢよろしく往きてつつしみて茅渟ちぬはまいしの原にのをみことやしろ祭祀まつり、しん庶頼こひねがひて百姓ひやくせい安饒やすらかならしめよ。」と。大諸隅おほもろすみみことほうじて祭祀まつる。於是ここにわざはひえやみのぞかれ、みのりゆたけくたみ安らけく、天皇いたよろこびたまふ。自餘じよ神応じんおう霊感れいかんつぶさべつの如し。四季しき祭礼さいれいあり、春正月むつきはじめの五日、夏六月みなづき十四日、秋八月はづき五日、冬十一月しもつき十四日、皆旧式きうしきりて之をおこなふ者なり。
牛頭天王?厄病神として祗園御霊会の祭神とされ、のち本地垂迹説に基づいて素盞嗚尊と習合した。
熊成の峰?書記、第五一書に「素盞嗚尊、居熊成峰而遂入於根国者矣。」とある。どこの山か、諸説あって不明。
日根?和泉の国南部の郡名。
青山?書記本文に「青山変かれやま。」とあり、第五一書に杉・桧・まき・樟などを人に与へ、八十やそだねを播生したとある。
疫疾流行?「崇神紀」五年の条にある。
大諸隅?「崇神紀」六十年の記事に「矢田部造の遠祖武諸隅」としてみえる。
流離?あちこちと、さすらふ。「崇神紀」六年条「百姓流離。」
自餘?そのほか。
別記?現在伝はってゐない。

 かたたがへだいみやうじんやしろ人皇じんのう第十五代神功じんぐうくわう太后たいこうおんせいぐわんねん、此の地にちんしたまふなり。第十四代仲哀天皇ちうあいてんのう即位あまつひつぎしろしめしたまひし二年正月むつき気長足姫おきながたらしみことを立てて皇后きさきしたまふ。二月きさらぎついたちつぬ鹿みゆきして行宮かりみやててします。之を笥飯けひの宮とまをす。三月やよひついたちつぬ鹿よりみなみの国をめぐりみそなはして紀伊の国にいたり、とこの宮にします。時にくまそむきて朝貢みつきたてまつらず。りて之をたむとたまふ。とこの宮よりあないでます。そのに、使をつぬ鹿つかはしたまひて、皇后きさきみことのりし、「其のよりちてあなひたまへ。」とのたまふ。夏六月みなづきついたち豊浦とゆらとまります。この皇后きさきによたま海中わたなかに得たまふ。九月ながつきに、宮室みやあなててします。之を穴門の豊浦とゆらの宮と謂す。八年正月むつき皇后きさきと豊浦よりちてつくいでまし、橿かしの宮にします。秋九月ながつきくまを討たむことをはからしめたまふ。時に住吉すみよしの神、皇后きさきかかりてをしへまつりてのたまはく、「海外のこがねしろがねたからある国を取らしめむとおもす」とのたまふ。天皇すめらみことけたまはずて、あながちに熊襲をち、ちたまはずしてかへります。九年春二月きさらぎに、天皇、つく橿かしの宮にかむあがりましぬ。皇后、天皇の神のみことに従はずして早くかむあがりたまひしことをいたみたまひて、財宝たからの国を求めむとおもほす。更に神のおしへを承け、きて官軍みいくさを整へたまふ。天神あまつかみ地祇くにつかみ、山神水神、皆ことごと出現あらはれていきほひを振るひ随従したがひたまふ、就中なかんづく、住吉の大神は、和魂にきみたま玉躰みついでしたが荒魂あらみたま先鋒さきて、筑紫の和珥わに 対馬嶋つしまの上県郡に在り。 より進発ちたまふ。於是ここに飛廉かぜのかみは風を起し、陽候うみのかみは波をげ、ふね波にしたが艫揖かぢかいいたつかずして新羅しらきいたる。於時ときに随船潮浪ふななみ、遠く国の中にあふる。ここに新羅のこきし戦々おぢ捒々わななきて厝身せむ無所すべなしみづかまつろ面縛みづからとらはれ、ふねまへくだす。高麗こま百済くだらふたつの国のこきし、えつまじきことを知りて、みづかまうき叩頭みて西蕃にしのとなりふ。皇后、かつやいばに血ぬらずしてみつのからくに凱歌かちどきを高くとなへて、つひ本邦わがくにに還りたまふ。明年くるつとし二月きさらぎふね攝州つのくに難波なにはして還幸かへりたまふ。時に、皇后、忍熊おしくまみこほむわけ皇子みこうばはむとおもいくさを起して住吉すみのえむらいはみ之を待つと聞きたまふ。武内たけしうち宿すくみことおほせて、皇子をうだきて、よこしま南海みなみのみちよりで、紀伊きのくに水門みなととまらしむ。ふねただ難波なにはを指す。於時ときにふね、海にめぐりてえ進まず。更に務古むこ水門みなとに還りましてうらふ。いくさしたがひしもろもろのかみおのもおのも鎮座しづめすうべきところおしへたまふ。すなは務古むこ水門みなとより、おしへのまにま諸神かみがみうつゑまつり、ことごと祭主いはひぬしく。その中に住吉の三神みはしらのかみおしへてのたまはく、「吾が和魂にきみたまをば大津の渟中倉ぬなくら長峡ながを鎮座しづめすうべし。往来ゆききの船をみそなはさむ。 大津は総名なり。別に難波津・高津・榎並津の名あり。渟中倉の長峡は、今之を岸の姫松と曰ふ。 」とのたまふ。同じく住吉のむらうかがはしむるに、忍熊おしくまの王、すでいくさを引きて山背やましろの国におもむく。ここりて皇后、先づ此のうらに着きたまひ、あらたに祭殿さいでんつくりて住吉の神をあしもてはにつつみて、かたたがへのまつりしたまふ。れより和魂にきみたまを今の住吉むらせんし、田裳見たもみ宿祢すくねもちてその祭主とし、もりむらじかばねたまふ。此のこころめる歌、
 はや難波なにはあしもけふよりはま住吉とそゐはふ神垣かみがき
の時、ふね着きし所をそう町となづけ、おんへさきとどまりし所をまつ町となづけ、行宮かりみや立てししところを宿院すくゐんなづく。今におき毎年まいねん六月みなづきの晦日みそか、住吉の大神、此の地にぎよしたまひ、祭礼さいれい厳重げんぢうなるしきあり。かぶとをさめしやしろあり、なづけて甲宮かぶとのみやひ、ほこを納めし地を号けて戈塚ほこづかと曰ふ。干珠ひるたま満珠みつたまを納むる社あり、によいのみやなづく。しかれはすなはち此の方違かたたがへの宮は、住吉の大神の始めてちんせし所なり。ゆゑ方違かたたがへの神社と住吉とはならびて朝廷みかどちようとせらる。およれきの伝ふる所の典籍てんせきする所、ほうあくあり、けうあり、土にしゆあり、神にじやあり。くのごとき、凶悪けうあくみな方違かたたがへの明神めうじんはらのぞく所なり。まこともつて皇后、れい玄鑒げんかんとくは天地とじらひひやくれいいだきて、くわう同塵どうぢんあといへども、きんの道を示し永世えいせいみちを垂れたまひし皇后の盛せいとくつつしむべし。いはんやまた凡庶ぼんしよおいてをや。五月さつき晦日つごもり恒例こうれいさいあり。きうひて、あるはにつつみてちまきし、まじなひてしん信敬しんけいはいあたふ。るは水陸すいりく旅行りよかうする者、或るは造宅ぞうたく遷居せんきよする者、或るはしゆ結婚けつこんする者、此のしんを受けて深く信じ敬すれば、則ちむかへるところべて災崇さいすゐを除き幸福かうふくを得るは、じんあまねく知る所なり。せき三月やよひ十五日・九月ながつき十五日に春秋の祭礼さいれいあり、近来きんらいえておこなはれず。

けいに曰、千金せんきんきういつえきあらず、太平たいへいこういつりやくに非ず。諸仏しよぶつ諸神しよしん用とくようおのおのそのしゆする所あり。所以ゆえほし好相かうさうくわ緒端しよたんおほきなり。風雲ふううんすい山木さんぼくさうかみあらざるはなし。有る者をば人をかす。それあらば則ち必ずほぼそれいかる。しかればこの神のふ所、まことに世のるをえうするものなり。

第十五代?神功皇后は即位の記事がないので、天皇の歴代に数へないのが普通。
二月正月?「仲哀紀」にこの記事がある。
  以下、書紀の文章の抄出。
気長足姫の尊?神功皇后。
角鹿?福井県敦賀。
笥飯の宮?敦賀市曙町、気比神社付近。
南の国?南海道。
勒津の宮?和歌山市新在家付近。
穴門?山口県豊浦郡とその周辺。

豊浦?山口県豊浦郡。
如意の珠?すべての希望をかなへるといふ珠。仏舎利から出た宝玉といふ。
穴門の豊浦の宮?下関市豊浦村の忌宮神社に伝承地がある。
八年正月?「仲哀紀」の長文を略す。
橿日の宮?福岡市香椎。
住吉の神?「仲哀紀」では、はじめ神は名をあらはしてゐない。
海外の・・・国?新羅の国をさす。書紀の文章を非常に略してゐる。
財宝の国?新羅の国をさす。
更に?以下四行分、書紀にない。
和魂?神の行為の平和な働きを神霊化していふ。「荒魂」の対。
玉躰?ミツイデの訓は「神功紀」「王身」の古訓に従った。語義未詳。
飛廉・陽候?ともに「文選」語藁。

王?コニキシ。大なる首長の意。ここは伝説で、特定の王をさしてゐない。
厝身無所?「身をおくに所なし」の意。
西蕃?蕃は藩、化外の種族。

明年?仲哀九年の翌年。神功摂政元年。
忍熊の王?仲哀天皇の皇子。母は彦人大兄(大江王)の女、大中姫。
誉田別の皇子?後の応神天皇。前年十二月に誕生。
住吉の邑?大阪市住吉区か。
武内の宿祢?伝承上の人物。三百歳の長寿を保ったちされる忠臣。
務古の水門?兵庫県尼崎市の武庫川河口付近。
鎮座?天照大神の荒魂を広田国(西宮市)、稚日女尊を活田長峡国(神戸市)にそれぞれ祭る。
大津?大きな港。
渟名倉の長峡?ヌナクラの語義不明。長峡は細長い地形か。大阪市住吉区の今の住吉大社の地とする説が有力。
山背?「神功紀」に「菟道うぢ」とある。
茲に因りて?以下「書紀」にない。
田裳見の宿祢?「神功紀」に津守連の祖とある。
  「住吉大社神代記」には、手搓見足尼と表記する。
千早ぶる・・・?難波の海岸に生えてゐる葦も今日からは住よい地となったことを喜んでゐるかの如く、住吉の社の神垣としていつき祭ってゐる。



暦家?暦の学に通じてゐる人。



玄鑒?明らかでどこもでも見とほす心。
百霊?多くの民。百黎。
和光同塵?仏が衆生を救ふために世俗に生まれ、衆生を次第に仏法に引き入れること。
軌?一定のきまり。軌範。軌制。
欽む?うやまふ。欽尚。欽慕。
況んや?まして一般凡人たるわれわれはなほさら(禁忌を守るべき)だ。
嫁娶?嫁に行くのと、めとるのとをいふ。
災崇?わざはひと、たたりと。

系?本文につらねて書く文章。
夫れ?そもそも千金もする高価な皮ごろもは、ただ一匹の狐のわきの下の皮でできたのではない。天下太平の功績はただ一人の英雄の智略によるものでない。
星?運命をあらはす意か。以下の文、訓読困難な漢字で、私訓を試みた。
憑る?たよる。信ずる。

 東原大明神、百済くだらより来朝まうけ王仁わにやしろなり。応神おうじん天皇即位あめのしたしろしめすす十五年、百済くだら阿花あくゑこきしたてまつりし阿直岐あちき経典ふみめり。即ち太子ひつぎのみこ菟道うぢのわき郎子いらつこみふみよみとしたまふ。天皇、阿直岐あちきに問ひてのたまはく、「いましまされる博士ふみよみひとりや。」とのたまふ。こたへてまをさく、「王仁わにといふものり。すぐれたり。」とまをす。時に上毛野君かみつけのきみおや荒田別あらたわけ巫別かむなきわけを百済にまだして、の王仁をさしむ。これりて明年くるつとし二月きさらぎに、王仁入朝まうく。則ち太子ひつぎのみこ菟道うぢのわき郎子いらつこまたみふみよみとしたまふ。もろもろ典籍ふみを王仁にならひたまふ。とほさとらずといふことし。れ、かん高帝かうていの後の鸞王らんわうすゑ王狗わうくてんじて百済くだらに至る。王仁は則ち王狗わうくうまごなり。本朝ほんてう経史けいしおよび文字もじもちひること、王仁に始まる。又此の王仁は開山かいさん行基ぎやうき菩薩ぼさつ先祖おやなり。つぶさ行状ぎやうじやう記述きじゆつの如し。兵燹へいせんの後、やしろす。今、天皇のやしろ同殿どうでん合祭がつさいす。
 向井むかゐ王子わうじやしろ後鳥羽ごとば天皇行幸ぎやうかうしたまひ、奉幣ほうへいして厳重げんぢう儀式ぎしきしたまひし所なり。即ち九十九所の随一ずいいちたり。ゆゑ定家ていかきやう熊野くまの御幸記ごかうのきいはく、つぎに 住吉の次 さかひ王子わうじまゐる。次第しだいれいの如し。つぎに境におい御禊おんみそぎあり。 田中南向。文。私に曰く、御奉幣・御経供養・さと神楽かぐら相樸すまう三番・被講和歌・是を「次第例の如し」と云ふ。
 又、熊野くまの王子わうじの記に曰く、さかひの王子、又向井むかゐの王子と曰ふ。文。此のやしろまたす。いま又、天皇と同殿どうでん合祭がつさいす。
 末社まつしやは九社。香椎かしひ 高良かうら 平野 三社同殿どうでん八幡はちまん 水若宮 稲荷 三社同殿、神明しんめい 一社、愛宕あたご 一社、白山はくさん 一社、大国だいこく天神てんじん 八将神 同殿、弁財天べんざいてん 一社、荒神こうじん 一社。

王仁?古事記に「和邇吉師」とある。
阿花王?書紀に「百済王」、古事記に「百済国主照古王」とある。
阿直岐?古事記に「阿知吉師」とある。
太子?応神天皇皇子。「応神紀」四十年正月に立太子の記事がある。
博士?学者。
上毛野君?「崇神紀」四十八年四月条に豊城命が始祖とある。「神功摂政紀」四十九年三月条に荒田別あらたわけ鹿我別かがわけとある。
明年二月?「応神紀」十六年二月条にこの記事がある。
通り達らず?隅々まで理解できない。
惟れ?「続紀」延暦十年四月八日条によって書いてゐる。
経史?経書と歴史。漢籍を、経・史・子(諸子)・集(詩文)に分類する。
兵燹?戦争のために起こる火。戦火。
後鳥羽天皇?第八十二代天皇。
九十九所?熊野詣の途上に設けられた九十九の休息所。熊野社を勧請して祭る。
定家卿?藤原定家。
熊野御幸の記?一二〇一(建仁元)年十月、後鳥羽院に随行した時の紀行。群書類従所収。
文?以上で引用文を終る、の意か。
末社?神社付属の小さな社。ここに九社とあるが八社しか出てゐない。誤脱があるか。

 人王じんのう四十五代 聖武しやうむ天皇の御宇ぎよう行基ぎやうき菩薩ぼさつ四方しはう行化ぎやうくわして此の地にいたる。古祠こし幽寂いうじやく佳境かきやう絶勝ぜつしようなり。神前しんぜん同宿どうしゆくし、終夜しうや法施ほふせす。すでにして深更しんかうに及び、神、老翁らうおうかたちげんじ、げてのたまはく、「今此のあきしま去来諾いざなき去来冊いざなみ二尊のめる所、日尊につそん子孫しそん系聯つらなりてをさめたまふ所なり。諸仏しよぶつ垂迹すいじやく加被かひ天神てんじん遊止いうし鎮護ちんごす。れも亦むくゆるに地を同じくし、願はくは瑠璃るりの域をでて此の国に入らんとし、二尊にそんの子に托迹たくじやくして素盞烏すさのをみことげんず。かみ王化わうくわを助け、しも兆民てうみんす。ここもつて国やすらけく民たのしぶ。しかうして澆季げうきに至り、皇運くわううんやうやおとろへ、庶民しよみんなやみ多し。千手せんじゆ千眼せんげんべて二十五の化主けしゆあり。べつして娑婆しやば薩埵さつたゑんあるなり。なんじ此の地におい伽藍がらん造立ざうりつし、みこと安置あんちせよ。しからば則ち、王沢わうたく永くほどこし、万民ばんみんゆたけくたのしび、利益りやくきはまり無からむ」とのたまふ。時に殿中でんちうに光あきらかに、医王いわう瑠璃るりとして、みこと儼然げんぜん現前げんぜんし、須臾しゆゆにしてめつす。菩薩ぼさつ歓喜くわんぎして恭礼けうらいし、則ち草創さうさうちかひおこす。同じきここ天平てんぴやう十五みづのとひつじの年、ひそかに天聴てんちやうたつし、大いに伽藍がらんを造立す。金堂こんだう講堂かうだう鐘楼しようろうらう・門等、輪奐りんくわん荘麗さうれいすこぶ梵風ぼんふうに応ず。学徒がくととくしたひてあひ追ひてきたる。蘭若らんにやかまへ、む者凡そ数十けんなり。其のきやう、前は大仙陵だいせんりやうのぞみ、後は朴津郷えのつのさととなりす。はうちやうせつせんしうの境にまたがる。ゆゑ三国山みくにさんがうす。 堺津さかひのつの名、もと此地より起るなり。 遍照へんぜう光院くわうゐんの名はけだまさくわうもとを示すべし。菩薩ぼさつ谿涯けいがいに向ひて水を求め、これじゆすに、せいくわほとばしでてる。故に向泉寺かうせんじひ、またむかでらと曰ふ。門前もんぜんむらまた同じくむかむらと名づく。此の水もてもろもろ痛痒つうやうを洗ふに、皆けんあり。今に至るまで人皆これむ。天皇、しう土師はじの下条しものでう一邑いちいうたまひ、永くぐわんの道場にてたまふ。建武けんむ元年ぐわんねん永福えいふく門院もんゐん御令旨ごれいしに、遍照へんぜう光院くわうゐんりやう和泉いづみの国土師下条向井村、知行ちぎやうすべき者とあるは、これなり。又すなは三州さんしうちまたなり。故に旅客りよかく絡驛らくえき往還おうくわん繽紛ひんぷんたり。菩薩ぼさつべつ伏屋ふせや一宇いちうを置きて、旅人たびびと休所きうしよしたまふ。 其の遺烈、遠く近世まで存す。一店あり、伝へて云ふ、三国の茶屋は、是れなり。 また寺の供余くよぶんきて、たびきうしてかてもたらさざるひとめぐみたまふ。あんずるに天武てんむ天皇の御宇ぎようみことのりあり、諸国しよこく役夫えきふ運脚うんきやくは、郡稲ぐんたうきて便たよりの地にたくはへ、交易かうえきにんじ、旅行りよかうの人をして重担ぢうたんらうやすめよとのたまふ。菩薩ぼさつ旅窮りよきうの人のため伏屋ふせやを置きたまふは、聖風せいふうひて化育くわいくたすくる者か。嗚呼ああ驚炎きやうえんを払へば則ち林に静柯せいかなく、鴻波こうはたにるへば則ち川に恬鱗てんりんなし。神社じんじや仏閣ふつかく塵寰ぢんくわんそむくは、世相せさううつるにくみせざるあたはざること、皆もの常数じやうすう固有こいうなればなり。如来によらい出現しゆつげんじゆんずれば、涅槃ねはんは則ち歓惜くわんせきゑんなり。当寺たうじの如きは久しく星霜せいさうあるいは兵燹へいせんため伽藍がらん焼失せうしつし、或いは民賊みんぞくの為に境内けいだい掠畧りやくりやくせらる。就中なかんづく、去る永正えいしやうらん兵燹へいせん伽藍がらんに及び、堂社だうしや僧坊そうぼう、皆灰燼くわいじんる。衆僧しゆうそう守禦しゆぎよするあたはず、泣きて本尊ほんぞんひてげ去る。これより寺をさかひうつす。高野堂かうやだう門前もんぜん民家みんか、同じく兵火へいくわかかり、ともに此の地方ちはううつる。今てらへんの町、南北なんぼくけて向井むかゐりやうづくるは、これなり。
けいいはく、いにしへより其の所をあらたうつすは、載籍さいせきに見る所也。ただ本邦ほんぱうのみにあらず、しかうして異域いゐきしげし。皆とき転変てんぺんもの隆弊りうへいなり。神社じんじや仏寺ぶつじおこかはるや、時におうゑんしたがふ。人をひて布化ふくわするに、なんさまたげかれあらんや。

御宇?御治世に同じ。
行化?修行と教化。
同宿?仏と共に宿る。「同行二人」の思想。
法施?神仏の前で読経すること。
秋津洲?本洲、ひいては日本の異称。
去来諾・去来冊?伊弉諾・伊弉冊尊。
日尊?天照大神。日神。
加被?加護。神仏のおかげ。(仏教語)
遊止?遊行(遍歴修行)を止める意か。
二尊?伊弉諾・伊弉冊尊。
托迹?ことよせて垂迹した、の意か。
兆民?多くの民。万民。
澆季?人情風俗が軽薄になった末の世。
千手千眼?向泉寺の本尊。観世音菩薩。
化主?信徒に勧化して布施をさせる者。仏。
娑婆?三千大千国土の総称。現世をいふ。
伽藍?寺。精舎。
医王?薬師如来の異称。
瑠璃?るり色。紫を帯びた紺色。薬師如来の別名を「瑠璃光」といふ。
菩薩?行基菩薩をさす。
天平十五年?七四三年。
天聴?天皇の耳にはいること。
輪奐?建物の壮大美麗なこと。
梵風?仏教的。仏教ふう。
蘭若?(仏教語)寺院。
大仙陵?仁徳天皇陵。
八町?一町は約一〇九メートル。
和光?和光同塵の略。仏菩薩が衆生を救ふために、本地を隠して俗界に現はれること。
菩薩?行基菩薩。
清華?きよくはなやかなもの。清水。


天皇?聖武天皇。
建武元年?一三三四年。
永福門院?九十二代伏見天皇の皇后。西園寺鏱子。
街?道の分れる所。辻。
絡驛?往来のつづくさま。
繽紛?多くさかんなさま。
伏屋一宇?宿泊所一棟。

供余?寺に供へられたものの余り。
粮?食料。
天武天皇?「天武紀」にこの記事なし。
役夫・運脚?人夫や調庸を運ぶ仕丁。

重担?荷(とくに米)の重いのをかつぐ。
伏屋?運脚夫・役民を泊め、食料を与へる施設。布施屋とも書く。
化育?天地自然が万物を育てること。
驚炎?はげしいほのほ。
静柯?静かな枝。
恬鱗?安らかに泳いでゐる魚。
塵寰?塵界。けがれ多い世の中。
与せざる能はざる?同調せずにはをれない。 如し?この一句、意不明。
兵燹?戦火。
掠畧?かすめ奪ふ。
永正の乱?永正八年(一五一一)七月、細川澄元と細川高国が和泉摂津で戦った。
守禦?守りふせぐ。


載籍?書物、典籍。

隆弊?さかんになるのと、すたれるのと。

布化?布教し化育する。

   三国山みくにさん向泉寺かうせんじ往古わうこ伽藍がらん本尊ほんぞん現存げんそんざう
金堂こんだう本尊、千手せんじゆ千眼せんげん観世音くわんぜおん菩薩ぼさつ 御長おんちやう立像りつざう五尺三寸
菩薩、かつ素戔嗚尊すさのをのみことの神のやしろまうでたまひし時、神、練若れんにやを造立し此のみこと供養くやうすることをすすめたまふ。同じくここ菩薩ぼさつ草創さうさうの日に礼刻れいこくし金堂に安置あんちしたまふ。物におうずるのえきつぶさ別録べつろくの如し。

講堂かうだう本尊、薬師如来やくしによらい        御長おんちやう立像りつざう三尺
聖徳太子しやうとくたいし彫刻てうこくしたまひし所なり。もとたちばな朝臣あそみ諸兄もろえ公の家に在り。こう深く菩薩をうやまひ、かつて此のざうもつて菩薩に寄附きふす。菩薩これを講堂にやすんず。地主ちしゆ牛頭ごづ天王てんのう本地仏ほんぢぶつなり。相伝あひつたふ、三国みくにの講堂るや、ざう、公に告げていはく、「行基ぎやうきすでに堂を作れり。吾れ早く行かむ」と。公明日めいじつ使をせ、奉送ほうそうしてはく、「感応かんのうこれにとどめたり」と。別記べつきの中の如し。

方違かたたがへの宮の御本地ごほんぢ、十一めん観世音くわんぜおん菩薩   御長立像三尺五寸
鞍部くらべ村主すぐりとりの作なり。いにしへ、鞍部の村主すぐり司馬しめ達等だちとむすめしまは、出家しゆつけして名を善信ぜんしんと称ふ。此のあま受戒じゆかいこころざしありて百済くだらに渡る。中流ちうりうにしてにはか風波ふうは荒起くわうきし、善信のれるふねすであやふき時、善信ただ一心いつしんに観世音菩薩をねんず。空中くうちうこゑあり告げてはく、「善哉ぜんざいなんぢちかひてはるかに異域いゐきに渡り、戒律かいりつ受習じゆしふして日本に伝通でんつうせんとす。其の勇志いうしたうとねんごろに守護しゆごせん。おそるなかれ。汝受戒成就じやうじゆして帰朝きてうせば、かならず十一面像を造立ざうりつして奉事ほうじすべし。吾れは是れ普門ふもん示現身じげんしん、方違のさちの神なり。朝廷てうていは則ちせいを守らばさち軍旅ぐんりよは則ちせんを守らば幸を得、造宅ざうたくは則ちこうを守らば幸を得、夫婦ふうふは則ちゑんを守らば幸を得、耕田かうでんは則ちこくを守らば幸を得、市廛してんは則ちしやうを守らば幸を得、河海かかいは則ち船を守らば幸を。天下のさちみことなり。」といふ。時に風波たちまちしづまる。善信ぜんしん歓喜くわんき敬礼きやうれいし、つひ百済くだらいたりて、受戒じゆかい成就じやうじゆす。りて帰朝きてう、神の教喩けうゆしたがひと十一面観音像を造らんとほつし、霊木れいぼく求索きうさくす。さいはひにとりの家に吉野寺よしのでら放光はうくわう仏像ぶつざうを作れる余木よぼくあり。善信はなはだ喜び、則ち鳥をして彫刻てうこくせしめ、大和やまとの国桜井さくらゐの寺に安置あんちし、終身しうしん恭敬けうけい供養くやうす。行基菩薩、かつ来由らいゆうき、当寺たうじ草創さうさうの時にの像を請来しやうらいし、当時の伽藍がらんに安置したまふ。
れ則ち方違かたたがへの宮の御本地仏ごほんぢぶつなり。円応ゑんおう無方むほう感応記かんのうきつまびらかなり。
東原大明神だいみやうじん御本地ごほんぢ丈六じやうろくひじり観音くわんのん   御長おんちやう座像ざざう八尺
弘法こうぼふ大師だいしの彫刻したまひし所なり。大師、かつ神祠かみつやしろまうで、本地ほんぢ真容しんよう祈拝きはいしたまひし時、ひじり観自在くわんじざいみこと儼然げんぜんとしてあらはれたまふ。りてこれ礼刻れいこくしたまふと云ふ。まさに月の浮影ふえいなりべし。別記べつきの中の如し。

大弁財天だいべんざいてん また大師のりたまふ所なり。大師此の地を経行けいかうしたまひしに、神女しんによあらはれ告げてはく、「せうや、厳島いつくしまの神なり。師の法施を受けずしてすでに久し。ここを以てきたのぞむ」と云ふ。りて其の地にきてやしろいとなみ、弁天像べんてんざうきざ安置あんち祭祀さいしす。

三面さんめん大黒天だいこくてんざう  是れまた大師だいし正作せいさく
       向井むかゐりやうはか往古わうこの本尊現存像げんぞんざう
引接院いんせつゐんの本尊伽羅陀山からださん地蔵ぢざう菩薩ぼさつ
       聖徳太子しやうとくたいしの彫刻したまひし像
もと興隆寺こうりうじ伽藍がらんやすんぜし所の本尊なり。行基菩薩、三国みくにちまた伏屋ふせやを造立し、往来わうらい飢寒きかんの者あらば、入れて衣食いしよくを与へ、又境外けいぐわい開墓かいぼしたまふ。旅人たびびと乞士ほがひびとの死してをさむるなき者あらば、みづか荼毘だびしたまふ。向井領の墓は其の旧跡きうせきなり。る夜、月色げつしよく朦朧もうろうとして寒風かんぷうはだし、薄雪はくせきおもてつ時、遠く非声ひせいを聞く。はなは酸切さんせつ爛心らんしん断腸だんちやうたり。菩薩、みづから行きてるに、いたる乞士ほがひびとあり。やぶれし縕袍ををんぱう着、路傍ろぱうに伏しまろ嘔吐おうとす。屍糞しふん臭穢しうゑしのび難し。菩薩、見て問ひたまふ、「汝は是れ何者ぞ。何故なにゆゑに深く悲しむか」と。乞士叉手さしゆしては云はく、「吾れは是れ無頼ぶらい乞士ほがひびとなり。飢寒きかんせまる所、腹痛忍び難し。いち慈悲じひして、願はくは救療きうれうれたまへ」と。菩薩、愍念びんねんもてはうき、けがれをのぞき、みづから着る所のきものぎて彼に着せしめ、按摩あんまたすちて、まさ伏屋ふせやかんとす。乞士行くことを得ず。菩薩、荷負かふしてやうやく伏屋におもむく。時に乞士、光をはなつ。菩薩、驚き仰ぐにたちま地蔵尊ぢざうそんと成りて空に昇る。たんじていはく、「善哉ぜんざい善哉、まこと仏子ぶつしよ。仏の心とは大慈悲だいじひ是れなり。菩薩ぼさつの心、亦復またまたかくの如し。吾れ深く汝のおこなひ真実しんじつ慈悲じひなるをこのめり。ここを以て来りこころむ。吾れ興隆寺こうりうじに在り。汝早く迎へ来て此の地の墓に置け。汝と、濁世だくせさいはひ無き衆生しゆじやうすくはむ」と。言ひをはりて見えず。菩薩、はるかに光のあとらいし、歓喜くわんきし涙をる。後、興隆寺にまゐしらたづぬるに、東北とうほくだうに此の像あり。さながげんずる所の尊容そんようる。りてこれ請来しやうらいし、墓の造立する所の来迎らいごう引接いんせつ二院にゐんこれやすんず。引接院の爾後そののち応益おうやく感応記かんのうきの如し。
来迎院らいごうゐんの本尊無量寿むりやうじゆ如来によらい
           行基菩薩こく弥陀みだ三尊の像
向井むかゐりやうはか来迎院らいごうゐん安置あんちする像、是れなり。感応かんのう別記の如し。

  高野堂かうやだう縁起ゑんぎあはせて往古わうこの本尊現存げんぞんざう
向泉寺かうせんじうつせる所のさかひの地は、もと方違かたたがへとう神輿しんよ行禊ぎやうけいの地なり。熊野くまの御幸ごかうの記にはく、つぎさかひおい御禊おんみそぎあり田中南向とは、即ち此の地なり。しかうして弘法こうぼふ大師だいしかつ入唐につたう伝法でんぱうの志あり、方違かたたがへの神に祈りて帰帆きはんするにまさに此の地にく。りて深く宿祷しゆくたうむなしからざるを感ず。すなはつたへ来し仏舎利ぶつしやり五鈷ごこ金剛杵こんがうしよを此の地にをさむ。以て報賽ほうさいす。の夜、神告げてはく、「師、とほ滄海さうかいえてたたきた法水はうすいりう通し、日域にちゐき沢洽あまねし。八荒はつくわうたみ甘露かんろに浴す。吾れ深く随喜す」と。師、大同だいどうちうかさねて掛錫くわしやくし、堂塔だうたふを造立す。爾来じらい此処ここを高野堂と名づくるものなり。
多宝塔たはうたふの本尊、金界こんかい毘廬舎那びるしやな如来によらい
                         御長座像ざざう一尺五寸
弘法大師の彫刻てうこくする所なり。師、南天なんてん鉄塔てつたふして多宝塔を造立し、此の像およ金剛こんがう薩埵さつた竜猛りうまう大士だいし護世ごせ四天王してんのう像をり、ねて伝来でんらい両部りやうぶ大曼陀羅だいまんだらぐわ像二幅を以て、並びに之を塔内に安置せるなり。今はただ大日だいにち像のみそんす。
護摩堂ごまだうの本尊、大聖だいしやう不動明王ふどうみやうわう
是れまた高祖かうそ大師だいしみづか彫刻てうこくしたまふ。炉壇ろだんに安置し、数々しばしば供修くしうする所の尊容そんようなり。天長てんちやうの末、たちばなの逸勢のぞく知重ちぢうなる者あり。麗質れいしつ世にえ、才智人をね。しかうして宿業すくごふまねく所、弱冠じやくくわんに及びてたちま悪疾あくしつわづらふ。花容くわようやうやおとろへ、緑髪りよくはつ日にく。時に実惠じつけい阿闍梨あじやり此の地に寄宿きしゆくするを聞き、喜びとうじてふ。闍梨じやり之をし、名を知覚ちかくなづく。かく云はく、「さいはひに芳林はうりんに入り、三宝さんぱう冥助めいじよしてやまひのぞじゆつあらんか」と。闍梨じやり云はく、「道心だうしん堅固けんごならば、是れまたかたきにあらず」と。覚つつしみてすくひをふ。於是ここに闍梨、大聖だいしやう炉壇ろだんむかひ、焚焼ふんせう七日夜なのかよ、覚亦一心いつしんじゆしようし、忘味ぱうみ除眠ぢよみん求哀きうあい懺悔ざんげす。七日の満夜まんやゆめとなくまぼろしとなく、明王みやうわう覚の前にいたり、いただきよりあしに至りて按摩あんまして去る。時に応じてやまひすべゆ。全て昔質せきしつに復す。覚歓喜くわんぎしてなみだを流し、深く闍梨にしやす。闍梨いましさとすらく、「はやなんぢ出離しゆつり生死しやうじ大善だいぜん知識ちしきなり。努力どりよくしておこたることなかれ」と。尓後そののち、覚もつぱ奉事ほうじす。此のみこと貞観ぢやうくわん五年によはひ五十一にして微疾びしつあり旬余じゆんよ一首いつしゆの歌をみて云ふ、
 とし御法みのりみちしあれば今かゑれどもまよはざりけり
即ち端坐たいざ合掌がつしやうしてく。時に紫雲しうん空にげんじ、異香いきやう室につ。刻頃けいこくにしてめつす。此のみこと霊感れいかんつぶさ別章べつしやうに出づ。
弁財天べんざいてん画像ぐわざう一幅いつぷく
三宝さんぱう荒神くわうじん画像ぐわざう一幅いつぷく
ならびに大師だいし真蹟しんせきなり。天長五年、淳和じゆんな皇妃くわうひひそかにみやを出、摂州せつしう摩尼山立神咒寺に入り、則ち大師にひて入壇灌頂くわんぢやうす。常に荒神くわうじん在りて動作どうさ障礙しやうがいあれば、妃、除障ぢよしやうほふを問ふ。因りて荒神供法くはふさづけ、之にきやうす。神、さはりさず。又護法神ごはふしんを問ふ。即ち弁天べんてん供法くはふを授く。天女てんによしばしげんず。師南嶺なんれいかへるに則ち此の地を過ぎ、すなはげんずる所の天女および荒神ざうゑがき、並びにのりしるして則ち之をのこす。当利たうりにしてしかのりをして久住きうぢゆう除障ぢよしやうそなへたらしめむとす。

弘法大師画賛ぐわさん一幅いつぷく
真如しんによ親王しんのう真蹟しんせきなり。貞観ぢやうくわん四年親王上表じやうへう入唐につたうす。まさに船をうかべんとする時に、此の地に在りて画賛ぐわさんしこれをのこす。
 向泉寺縁起、多く旧記きうきり、あひだ口伝くでんを加へ、緝綴しふていせしのみ。
 威徳院ゐとくゐん沙門しやもん 空賢くうけんるす。
みぎ、向泉寺縁起のうつしは、主命しゆめいを受けて書写しよしやをはんぬ。
元禄げんろく十三かのえたつ孟夏まうか中旬ちゆうじゆん
 土生氏 ぼうかふつつしみてしよす。
去る享保きようほとら三月、向泉寺図録づろく縁起ゑんぎしつす。りてふたたくらの中の写本しやほん縁起ゑんぎうつし、之を寺におくるものなり。
 今井氏家臣かしん ぼう謹みて書す。



五尺三寸?約一・六メートル。
菩薩?行基をさす。
練若?蘭若ともいふ。寺院。


益?御利益。

三尺?約0・九一メートル。

橘の朝臣諸兄?美努王の兄。葛城王。左大臣、正一位。万葉集に作品が多い。
地主?地の神。国つ神。
三国?「山」の字脱か。


明日?あくる日。翌日。
感応?信心の誠が仏に通じたこと、これ以上のことはない。

三尺五寸?約一・〇六メートル。
鳥?止利とも書く。
司馬達等?「敏達紀」十三年是歳の条にある。渡来人技術者。鳥の祖父。
善信?前項「敏達紀」及び「元興寺縁起」に記事がある。
受戒?仏の制定された戒法を受ける意。仏教教団に入るため、五戒・十戒・具足戒など、定められた受戒の儀式を経ねばならない。
善哉?神仏の示現等に唱へる賛美のことば。ありがたや。ここでは仏のことば。
普門示現身?仏や菩薩が種々なかたちを現はして衆生を救ふ、その仏身。
軍旅?軍隊。兵士。軍勢。


市廛?店。


歓喜?仏の教へをきいて心によろこびを感じ、信心をおこすこと。
教喩?教へさとすこと。


桜井寺?別名向泉寺・豊浦寺。「欽明紀」十三年十月条に、蘇我の稲目が寺としたとあり、「崇峻紀」三年三月条に、善信らが桜井寺に住んだとある。
円応無方?まどかで完全、かどが無い。

八尺?約二・四二メートル。

本地真容?仏・菩薩の真のおすがた。


応に・・・?キッと、月が水に浮んだ影なにであらう。
 (そのやうに清澄の気のこもった作だ)


厳島?広島県宮島。
法施?仏・菩薩が衆生のために法を説くこと。









興隆寺?未詳。

乞士?乞食。
斂?斂葬。うづめはうむる。
朦朧?おぼろなこと。ぼんやりと。
酸切?かなしみせまる。
爛心?心をやけただれさせる。
断腸?悲しい苦しい思ひがする。
敗?破に同じ。
縕袍?どてら。ぬのこの綿入。
叉手?手をこまぬく。腕組みする。中国ふうの礼。
無頼?安んずる所のない。くるしい。
和?こたふ。
愍念?あはれみの心。


按摩?もみさすってやること。
荷負?肩にになふ。荷担。
善哉?よいと歎美することば。よくやった。
仏子?菩薩の仏の教に従ってその業をつぐものである。
菩薩?悟りを求めて自ら修行し、未来において仏となる者。








応益?時に応じての御利益。


弥陀三尊?阿弥陀如来と観音・勢至の二菩薩。



神輿?神ののりもの。みこし。
行禊?禊を行なふ。



宿祷?ずっと以前からの祈祷。
仏舎利?仏骨。釈尊の遺骨。
金剛杵?古代インドの武器。煩悩を砕く菩薩心の象徴。先端五個の頭があるのを五鈷といひ、五智五仏を表はす。
日域?日本。
八荒?国の八方のはて。国のはづれ。
大同?八〇六?八〇九年。空海寂は八三五年。
掛錫?巡行の僧が止住すること。
多宝塔?単層の裳層もこしをつけた塔。
一尺五寸?約0・四五メートル。

両部?金剛界曼陀羅と胎蔵界曼陀羅。曼陀羅は諸仏・諸菩薩の集る処。





供修?おそなへをし、仏道を行なふ。
天長?八二四?八三三年。
属?なかま。ここは一族の者、の意。
弱冠?二十歳。
花容?花のやうに美しい顔貌。
緑髪?くろかみ。
度?済度。すくふこと。
闍梨?阿闍梨の略。僧侶。わが国では承和三年(836)が初見で、記事の年代が合はない。
芳林?花のはやし。ここは法林の意。
三宝?仏教徒の尊敬すべき仏・法・僧。
道心?仏道を信ずる心。
焚焼?(香を)たく。
忘味除眠?寝食を忘れるほど熱中する。
満夜?満願の夜。

昔質?以前のかたち。生まれつき。
出離生死?迷の世界即ち生死をはなれ出て解脱の境地に至ること。「疾是」で即身成仏を説いてゐる。「善知識」は高僧。
貞観五年?八六三年。
微疾?軽い病気。「旬余」は十日余。
年を経て・・・?長年にわたって学ぶ仏道が私にあるから、今帰幽(死んで)しても心まどふことはないのだ。
紫雲?高僧の死の描写の定型。
頃刻?しばらく。つかのま。




大師?弘法大師。空海。
天長五年?八二八年。
灌頂?水を頂にそそぎ仏の位を継がせる。
障礙?障害。さまたげ。じゃま。
護法神?梵天・帝釈天など正法を護ることを誓った善神。護法の善神。
南嶺?高野山。
此の地?堺の地。
当利?(現世利益に対する)後世利益。
久住?久しくとどまって住む。



画賛?絵の上に書くほめことば。
貞観四年?八六二年。


緝綴?材料を集めて文を作る。



元禄十三?一七〇〇年。孟夏は四月。

某甲?何某。なにがし。

享保七?一七二三年。
【出典:『方違神社-研究と資料-』編:植垣節也(皇學館大學出版部)】

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作成:2014年 9月 7日 18:16:02 再構築
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