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名所図会 巻1-04 堺人物

さかいの人物じんぶつ
当津古来めい人物じんぶつえらんで、こゝに載す。

たん
[扶桑隠逸傅]曰、具平ぐへい親王しんわう遠孫えんそんなり。はやく塵俗じんぞくを出て、肖柏せうはくがうし、又、みづから牡丹花ぽたんくはしやうず。ひとみなこれをぶ。このんしよよみ和歌わかゑいじ、兼てれんよくし、ねんさいそうしたがふ。またつねがくあそんでつくる。いづる時はかならずうしのりかくぬり金色こんじきとなす。観者みるものあやしみわらへどもじやくたり。おひなんなんとして、いんせつしういけしめて、あんといふ。ちやうしよう花樹くはじゆのきめぐらし、またしいはなを以てだいうえたり。これによつて、そののきはうじて弄花ろうくはと号し、さけこのかうあいし、はなあはせ三愛さんあいとして、みづからつくる。永正七年の秋、みかど御夢おんゆめたんくは給ふ。すなはち藤公とうこう實隆さねたかめいじて、便殿びんでんめして、したしく唱和しやうわましまし、みかどはなはだゑつし給ふ。また幽栖ゆうせい帰かへつて、ふく葛巾かつきんしやうゑいしてたのしむ。厥后そのゝちせつらんさけて、きよ泉南せんなんうつす。ついに、大永七年四月、そつす。がい南宗なんしうかくす。とし八十五。
[春夢草]云、
さいつの頃、うちの帝の御ゆめに、先皇の御代、御連歌有へきにて、発句にをきては当座に申へし、歌の心に同し風情をおもひめくらし侍るとて、
 あし引の山とをき月を空にきて月かけ高き末のかけはし
といふ歌を申あけたりと御覧してのち、肖柏をめして
  発句  空にをきてみん世やいくよ秋の月                     肖 柏
  脇    庭にくもらぬ玉しきの露                            御 製
あるが日、肖柏せうはくかつたんめうあり。故に、じんたんくはしやうす。肖柏せうはくさかいあつて、とう實隆公さねたかこう唱和しやうわの事を、次下つぎしたくはうみやうゐんでうに見へたり。
  春さかぬ花やこゝろのふかみ草                           肖 柏
当津に於て、れんの門弟多し。所謂いはゆる、河内屋宗訊そうじん、其子宗周そうしゆ 一咄齊いつとつさいしも宗柳そうりう ちくさいとう 靖齊せいさい
ある時、宗ぢんの所にて歌の会ありしに、
    瀧邉時雨
  山姫の瀧のしらきぬそめかねてけふはつしくれさそひきぬらん        肖 柏
こんくはうかく阿弥あみの所にて
    枯野風
  こゑをしる友ならすやは下萩したはぎにならのかれ葉の野への朝風           肖 柏

牡丹花肖柏ゆかりの地

肖柏しょうはく(嘉吉3年(1443)-大永7年4月4日(1527年5月4日))は、室町時代中期の連歌師、歌人。
准大臣中院通淳の子として生まれ、夢庵・牡丹花ぼたんか弄花軒ろうかけんなどと号した。自然濟宗祇から伝授された「古今和歌集」、「源氏物語」の秘伝を、晩年移住した堺の人たちに伝え、堺伝授の祖となった。
早くに出家して正宗龍統に禅を学び、また和歌を飛鳥井宗雅、連歌を宗祇に学んだ。30歳頃から後土御門天皇の内裏歌合に参加している。応仁の乱の頃には摂津国池田に住み、その後度々上洛したが、永正15年(1518)和泉国堺に移り、その地で没した。
「古今和歌集古聞」など講釈の聞書をもとにした注釈書が多い。連歌師としては、宗祇、宗長と詠んだ「水無瀬三吟百韻」「湯山三吟百韻」などが伝わっている。歌集・句集に「春夢草」がある。

紅谷庵


天皇山紅谷庵 堺市堺区中三国ケ丘町2-1-37

紅谷庵 本堂
天皇山紅谷庵(通称べにあん)は、大永年間(1521-1527)堺大小路在住の豪商紅屋喜平が、この地に草庵を建てたのが始りです。
池田から乱を避けて堺に来た連歌師「牡丹花肖柏」をこの草庵に住まわせました。
その後荒廃しましたが浄土僧是得が居住、諸宗の徒も来往。
安政元年(1854)勅特賜絶学天真禅師、環渓密雲禅師が日々多数の僧を連れ、堺付近を托鉢の際、当庵の荒廃を見てこれを惜しみ、自ら譲受け大修理をし、僧侶養成の法を講じて遂に五十余員の僧侶を安住させ、櫛屋町の土川茂平らに援助を乞い大修理を行い、明治元年(1868)本堂・庫裏を建て曹洞宗の寺としました。
【出典:天皇山紅谷庵リーフレット】

南宗寺 牡丹花肖柏之墓碑


南宗寺 牡丹花肖柏之墓碑

紹鷗せうおう
かん居士こじ、又、大黒菴だいこくあんと号す。
當津南莊みなみのしやう舳松町へのまつちやうちうす。茶道さだう達人たつじんにして、都鄙とい宗匠そうしやうあをひ崇敬そうきやうせり。はし武田たけた因幡守いなばのかみ仲村なかむら名乗なのッて、すなはち武田たけた信光のぶみつ裔孫ゑいそんなり。祖父おほぢ仲清なかきよ應仁おうにんみだれ討死うちじにし、ちゝ信久のぶひさはなれてみなしごなり四方しはう周流しうりうし、或時あるときは、みやこ四條してう蛭子堂ゑびすだう隣家りんか幽棲ゆうせいして、大黒庵だいこくあんしやうし、薙髪ちはつして一閑いつかん居士こじといふ。ばうしう大内おほち義弘よしひろ在京ざいきやうの時は、時々よりより伺候しこうし、又、西にし三条逍遥院殿せうようゐんどのちなみて、歌道かだうまなぶ。その深志しんしかんじ給ひて、古今こきん口傅くでんさつけ給ふ。其頃、五條松原町まつはらちやうに、南都なんと珠光しゆくはう弟子でし宗陳そうちん宗悟そうごといふ数奇者すきしやあり。紹鷗せうおう、つねに此所に至り、茶道さだう修練しうれんして、さかいかへつて、いよいよ数寄すきもはらとし、はるはながんわかれをおしむ時は、風爐ふろをかまへ、秋の紅葉もみち鹿しかなくきけば、圍爐裡いろりにこぞりて長夜ちやうやたのしみ、或時あるときは、紫野むらさきの大林たいりん和尚わしやうしやうして、禅法ぜんはう染心ぜんしんし、四大しだい本来空ほんらいくうさとつて、ついに、弘治こうぢ元年乙卯十月廿九日、そつす。すなはちがい南宗寺なんしうじかくす。
紹鷗せうおうそく宗瓦そうくはといふ。其子を武野たけの安齊あんさいと号す。幼年ようねんには、朝蔵主てうざうすとて、澤庵たくあん和尚の巾瓶きんひん随侍すいしせられける。

武野紹鷗ゆかりの地

たけじょうおう
文亀二年-弘治元年(1502-1555)
大和出身の茶人、豪商、のちに堺に移り住んだ。上洛して三条西実隆に和歌を、十四屋宗陳・宗悟らに茶の湯を学ぶ。堺に帰ってからは、北向道陳らと交友し、南宗寺の大林宗套に参禅して一閑居士の号を許された。茶道においてはわび茶を好み、利休を初めとする多くの門人に大きな影響を与えた。
【出典:堺市博物館前の碑文】

武野紹鷗像

  
堺市博物館前 紹鷗像

武野紹鷗屋敷跡  堺市堺区中之町東2丁

  
武野紹鷗屋敷跡碑
武野紹鴎は文亀2年(1502)大和(奈良)で生まれ、のち堺に移った。
皮屋の号を持つ豪商の一人。
若い頃、京で三条西実隆さねたかに和歌を、村田珠光じゅこう一門に茶の湯を学び、堺に帰って津田宗及そうきゅう、今井宗久、千利休らに珠光のわび茶を伝え、特に宗久を娘婿にして財産・茶器を譲った。 茶人北向道陳らと交友し、南宗寺の開祖大林宗套だいりんそうとうに禅を学んだ。 南宗寺には紹鴎の供養塔があり、この供養塔に耳をあてるとシュンシュンとお茶の湯を沸かす音がするという。
【出典:屋敷跡案内板】

南宗寺 武野紹鷗之墓碑


武野紹鷗之墓碑

小西こにし如清じよせい 初彌十郎
累世るいせ堺津さかいのつすんで、薬種やくしゆあきなひ富有ふゆうをくうるほすなり。天正年中、秀吉ひでよしばん州にあつて、藝州げいしう毛利もうり輝元てるもと對陣たいぢんす。播藝ばんげい中間ちうげん宇喜多うきた直家なおいゑあり。備前びぜん國守こくしゆ也。秀吉公ひでよしこう小西こにし十郎を以て良媒りやうばいとし給ふ。小西こにしたゞち直家なおいゑゆき、今、秀吉、織田おだめいうけ播州ばんしうにあり、御邉ごへん信長公のぶながこうへ一し、とも毛利もうり退治たいぢし給はゝ、美作みまさか一國いちこく加恩かおんに申べきと、張儀ちやうぎ辨舌べんぜつふるひしかは、直家なおいゑ即座そくざ同心どうしんす。秀吉公、其こうしやうじて、りやう地一千せきたまふ。

小西こにし攝津守つのかみ行長ゆきなが

小西こにし攝津守せつつのかみは、ほう太閤たいこう恩顧をんこなり。朝鮮てうせん征伐せいばつ魁将くはいしやうとして、異國ゐこくに於て武名ぶめいかゝやかし、肥後ひご宇土うどの城主たり。石田いしたくみしてほろびけるは、本意ほゐなき事也。
小西こにし攝津守せつつのかみ行長ゆきながは、如清じよせい長男ちやうなんなり。いとけなきより秀吉公ひでよしこう近侍きんしす。長生ひとゝなつてのち領地りやうち肥後國ひごのくにたまはつて、宇土城主うどのじやうしゆたり。文禄ぶんろく年中、朝鮮てうせん征伐せいばつとき行長ゆきなが魁将くはいしやうとして不日ふじつ敵城てきじやうやぶり、鮮人せんじんみなごろしにす。おほひ武名ぶめい三韓さんかん及び大明國だいみんこくふることは[朝鮮征伐記てうせんせいばつき]につまびらかなり。たゞにわがてうしよひつするのみにあらず、明書みんしよ懲毖録てうひろく]にもくはしのせたり。慶長けいちやう五年、石田いした三成みつなり反逆はんぎやくとうして、滅亡めつぼうす。

小西攝津守行長ゆかりの地

弘治元年(1555年)、堺の薬種商である小西隆佐の次男として京都で生まれた。父の影響を受けて早くにキリシタンになった。はじめ宇喜多直家の家臣として仕え、主に外交担当の使者を務めていたと言われている。直家が羽柴秀吉(豊臣秀吉)を通じて織田信長に降伏できたのも、行長が秀吉と交渉したからであるとも言われている。
天正9年(1581年)に直家が死去すると、羽柴秀吉の家臣として仕えた。豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いていた。しかし水軍を率いて参戦した天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻めでは、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したと言われている。
天正15年(1587年)の九州征伐、翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、肥後の南半国宇土、益城、八代、天草四郡24万石を与えられた。肥後では宇土城を新規に築城し、本拠とした。行長の宇土城は水城として優れた機能を持っていたという。このほか秀吉の意を受け、水軍指揮と海外貿易の適地であった八代に麦島城を築城し(八代はルイス・フロイスが『日本史』で絶賛した土地であった)、重臣の小西行重を城代として配置した。このほか隈庄城、木山城、岩尾城、愛藤寺城を支城とし、隈庄城に弟の小西主殿介、岩尾城に結城弥平次ら一族重臣を城代に任じている。 しかし、残りの肥後北半国を領した加藤清正と次第に確執を深めることになる。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では先鋒部隊として朝鮮へ進攻する。そして釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げた。
その後、朝鮮での戦況が不利になると、石田三成と共に明との講和交渉に携わり、明側の講和担当者・沈惟敬らと共謀し、秀吉には明が降伏すると偽り、明には秀吉が降伏すると偽って講和を結ぼうとする。なお、この時日本側の使者として明の都・北京に向かったのが、行長家臣の内藤如安(明側の史料では小西飛騨)である。
この結果、明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日する事になった。この書を秀吉に報告する段階で行長は適当に書の内容をごまかすよう、書を読み上げる西笑承兌に依頼するものの、承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えた。このため講和は破綻、この講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられるが、承兌や前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われる。
講和交渉における不忠義の埋め合わせとして、慶長2年(1597年)からの慶長の役では加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻することになる。南原の攻略戦(南原城の戦い)に参加後、全州を占領し全羅道方面を制圧した後、順天倭城に在番。翌慶長3年(1598年)9月末から10月初めにかけて行われた順天倭城の戦いでは明・朝鮮軍による水陸からの攻撃を撃退した。しかし清正とは以前より不仲であり、作戦をめぐって対立するなど、後に武断派と対立する一因を成した。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、行長は12月に帰国する。その後は加藤清正らとの路線対立から石田三成ら文治派に与し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。
9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小早川隊に襲われて小西軍は壊滅し、行長は伊吹山中に逃れた。行長が自害しなかったのは、自害を禁じるキリシタン信仰の故と言われている。
9月19日、竹中重門の手勢に捕らわれ、10月1日に六条河原において三成に続いて斬首された。斬首される直前、行長はキリシタン信仰を理由とし、僧の経文を拒否したと言われている。その後、首は徳川家康によって三条大橋に晒された。
なお、小西行長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えるまでの動向は良くわかっていない。生家跡と伝えられる場所は堺が繁栄していた時代のメインストリート大道筋(紀州街道)にあり、現在は石碑を残すのみとなっている。
また、小西行長は、この和泉名所図会では小西如水の「長男」と記載されたいます。
行長の父で薬種商を営む小西隆佐には、長男「如水」、次男「行長」、三男「行景」、四男「主殿介」の四人の男子がおり、自身も「如水」を名乗ったので混乱が生じたと言われています。
真偽の程は定かではありませんが、前述の「小西如水」については、もう少し掘り下げて検証したいと思います。

小西攝津守行長屋敷跡碑

  
小西行長屋敷跡碑
堺の薬種商小西りゅうの子。秀吉に信任され、しばしば戦功をたて、天正16年(1588)肥後国(熊本県)宇土24万石の領主となった。文禄・慶長の役(1592?1598)では、加藤清正と並で朝鮮侵略の先鋒となり、ピョンヤン(平壌)を陥れた。行長は熱心なキリスト教徒で、洗礼名ドム・オーギュスタン(アゴスチーニュ)。堺に孤児院や病院を建てるなど、社会事業に尽くした。後、慶長5年(1600)関ケ原の戦いでは、石田三成方について敗れ、京都で斬首された。刑場においても、行長は主の名を唱え、手にキリストの小画像を捧げ持ち、刑についてといわれる。
【出典:小西行長屋敷跡案内板】

小西行長手植の傘松の幹と少林寺

菅原神社 小西行長手植の傘松の幹 少林寺
古くから堺北庄の総氏神として崇められている菅原神社の随身門には「小西行長手植の傘松の幹」が保存されています。 この松は行長が文禄の役から凱旋したとき、朝鮮の土産品として持ち帰り、奉納したものです。 元々は神社の境内に植えられていましたが、昭和初期に落雷によって枯れ落ち、残った根の部分のみが保存されています。 小西行長が、豊臣秀吉に石田三成とともに少林寺の竹木の伐採を禁止したことが記されており、少林寺とは遠からぬ因縁があります。

せんの利休りきう

せんのきうは、茶道さだう極意ごくゐ西行さぎやう和歌わかたうとみ給ふとぞ聞へし。
[山家集]
 哀れたゞ草の庵のきひしきは
    風より外にとふ人そなき
               西行
せん四郎。薙髪ちはつの後、千宗易そうゑき。又、抛筌齊ほうせんさいと云。今、数奇屋すきや旧蹟きうせき竹屋町ノ辺にあり。
當津たうつ南莊みなみのしやう今市町いまいちちやうの人也。先祖せんぞより久しくこゝにぢうす。十七さいの頃より茶道ちやのみちこゝろせ、道陳だうちんしたがひて名をたり。道陳、ある時紹鷗ぜうおうへ物語のついでに、せんの四郎といふものありて、茶道さだうこゝろこめ時々よりより来りけるが、数寄すきみちにくからず、雑談ざうだんやさしくきこへはべるとかたれば、紹鷗ぜうおうちやのませ候はんとて、それより常に妙手めうしゆつたへ給ひける。於是こゝにおいて、利休、天下てんか高く、世人よのひと崇敬そうけうおろそかならず。利休、ある門弟もんていあつめかたり給ふは、わが数寄すきみちのこゝろは、家隆卿かりうきやううた
  花をのみ待ちらん人に山里の雪間の草の春を見せはや
古歌こかを以て、わが茶道ちやのみち口傅くでんとするとのたまひける。又、利休法躰ほつたいしけるは、紹鷗ぜうおうあらため請待しやうたいしける、そのあしたこと也とそ。厥后そのゝち太閤たいかう秀吉公ひでよしこうめされ、利休りきう居士こじたまはり、若干そこばく領地りようちはいす。然れとも、に出たる事を本意ほいとも思はず、閑居かんきよ隠遁いんとんの心つねにありけるにや、慈鎮じちん和尚くはしやううたくちずさみ給ひけり。
  けがさしとおもふみのりをともすれは世わたる橋となるそ悲しき
其後、讒言ざんげんことありて、ついほろびけるとぞ。

千利休ゆかりの地

せんのきゅう(大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日))は中世末期、戦国時代、安土桃山時代の茶人。何も削るものがないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すというわび茶(草庵の茶)の完成者として知られています。
和泉国堺今市町の商家(屋号「魚屋(ととや)」)に父田中与兵衛、母月岑妙珎との間に生まれました。家業は納屋衆(倉庫業)。若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。
織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、のち豊臣秀吉に仕えた。1587年の北野大茶会を主管し、一時は秀吉の重い信任を受けた。 1585年10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。また黄金の茶室の設計などを行う一方、草庵茶室の創出・楽茶碗の製作・竹の花入の使用をはじめるなど、わび茶の完成へと向かっていく。秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、碌も三千石を賜わるなど、茶人としての名声の絶頂にあった。
天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居を命じられる。前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。七十歳であった。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋で梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺山門上の木像に踏ませる形でさらされたという。
利休が死の前日に作ったとされる辞世の句が残っている。
人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛
利休死後の後継者としては先妻宝心妙樹の子である嫡男千道安と、後妻宗恩の連れ子で娘婿でもある千少庵が有名であるが、この他に娘婿の万代屋宗安、千紹二の名前が挙げられる。ただし道安と少庵は利休死罪とともに蟄居し、千家は一時取り潰しの状態であった。なお宗恩は袱紗を現在の形に定めるなど、自身茶の湯に精通し、利休のよい補佐役、理解者であったといわれる。豊臣家の茶頭としての後継は古田織部であったが、そのほかにも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶の道統を嗣いだ。
利休死後数年を経て(文禄4年頃)徳川家康や前田利家の取りなしにより道安と少庵は赦免され、道安が堺の本家堺千家の家督を継いだが、早くに断絶した。このため少庵の興した分家である京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。また薮内流家元の藪内家と千家にも、この時期姻戚関係が生じる。
三千家は利休の養子となった宗恩の連れ子千少庵の系譜であり、大徳寺の渇食であったその息子 千宗旦が還俗して家を再興し、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。このとき宗旦は、秀吉から利休遺品の数寄道具長櫃3棹を賜ったという(指月集)。その次男宗守・三男宗左・四男宗室がそれぞれ独立して流派が分かれ、武者小路千家官休庵・表千家不審庵・裏千家今日庵となっている。
「わび茶」の完成者としての利休像は、『南方録』を初めとして後世の資料によって大きく演出されてきたものである。偽書である『南方録』では、新古今集(実際は新古今和歌集には見当たらない)の家隆の歌
「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや」
を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上(薩摩屋)宗二による「山上宗二記」が第1級の資料とされている。この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。
利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。
利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。このことにより茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。後には天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。
また「露地」も利休の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言えるだろう。
「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえるだろう。

千利休像  堺市博物館前

  
千利休像

千利休屋敷跡  堺市堺区宿院町西1丁17-1

  
千利休屋敷跡
堺の豪商ととの長男として生れた与四郎は初め北向道陳きたむきどうちんに茶の湯を学んだが、更に道陳の師たけじょうおうに師事し、遂に「わび茶」を大成された。
千与四郎は、茶名千宗易せんそうえきといい、織田信長・豊臣秀吉に茶頭として仕え、おおまち天皇よりきゅう居士こじごうを賜わった。また、壮年時には、抛筌齊ほうせんさいとも号していた。
天正15年(1587)10月秀吉の北野大茶会をつかさどり、秀吉に次いで二番の席をもうけるなど天下一の茶人として、茶器などにも種々工夫をこらし、わび・さびの境地をきりひらいた。その根底には、大徳寺の禅師に深く禅を学び、茶禅一味の悟りに達していたことが考えられる。その後天正19年(1591)2月秀吉の怒りをかい京都から追放され堺にて謹慎していたが、京都に呼び戻され同月28日尼子三郎左衛門らを検使として切腹させられた。この屋敷跡には、利休が茶湯に常用していたといわれる椿井が、また南宗寺には実相庵と称する二畳台目の茶席(塩穴寺より明治9年南宗寺に移築、第二次大戦で焼失昭和35年復興)がある。
【出典:千利休屋敷跡案内板】

南宗寺 千利休供養塔 実相庵

  
千利休供養塔                       実相庵

鼠樓栗そろりしん左衛門

ほう太閤たいこう御伽おとぎ鼠呂利そろりしん左衛門は、滑稽こつけいの人なり。
晏子あんし]曰、齊王せいわうじゆん于髠うこんをして、てうゆきすくひこはしむ。きんきん車馬しやばあり。じゆん于髠うこんてんあをいで大にわらふ。こと纓絶ゑいぜつせり。故に、黄金こがねいつ、白へき十五さう、車馬百駟をましける也。
鼠樓栗そろりしん左衛門は、當津南莊、目口めくち町に居住きよぢうして、刀鞘師かたなのさやし也。細工さいく名譽めいよて、かたな鞘口さやくちソロリと能合よくあふゆへに、世人よのひと異名ゐめうせり。其上そのうへ口軽くちかろ頓智噺とんちはなし上手じやうずにて、秀吉公に召出され、つね御伽おとぎを申上る。又、詩歌しかにも携持たずさはりてこゝろもやさしく、ある時、関白くはんぱく秀次ひでつぐ公の御前ごぜん伺候しこうの時、むかしのみかど北山きたやま行幸みゆきの時、普陀洛寺ふだらくじとこかざらせ給ひし、士峯しほうといふめい盆石ぼんせきを、ある人たてまつはべりけるをて、して曰、
 千里飛來入座間   自今何用在東關
 不知山魄化成石   士嶺無端拈出看
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   狂  歌
 ゆびさきでつまみ給ひしふじの山天下をたもつ御ちから也
朝鮮てうせん征伐せいばつの時、御渡海ごとかい連日れんじつありければ、
 秀吉が壱石米いちこくこめを買かいかねてけふも五斗買ごとかいあすも御渡海ごとかい
鼠樓栗そろり新左衛門病床びやうじやうかゝり、存命ぞんめいもなく見へける時、秀吉公より上使を下され、何事にものぞみはなきかと、ねむごろに上ありければ、
 御威勢ごゐせい三千さんせん世界せかいらば極楽ごくらく浄土じやうどわれにたまはれ

曽呂利新左衛門ゆかりの地

曽呂利新左衛門供養塔

  
妙法寺 茶宗北向道陳の墓碑と隣り合わせに立つ曽呂利新左衛門の墓碑

瑞溪ずいけいしやう
いみな周鳳しうほう泉南せんなん津の人也。臥雲山人ぐはうんさんじんがうし、又、北禅ほくぜんしやうず。僧禄司そうろくしなり。[善隣國?(王に缶)記ぜんりんこくほうき*1]をえらんで、に行はる。
【管理人注釈】*1和泉名所図会では「善隣國?(王に缶)記」と表記されていますが、原書では「善隣國寶記」と題されています。

三好みよし存保まさやす
三好みよし存保まさやすは、十河そかう民部みんぶの太輔たゆう一存かづまさ也。三好みよし長慶ちやうけいめいしたがひ、堺にぢうして、和泉いづみ河内かはち政事せいじ執行とりをこなふ。政所まんどころ始祖しそなり。其後、勝瑞しやうずいしろきよして、長曾我部ちやうそかべ宮内少くないのせう元親もとちかたゝかふ。それより、秀吉公のめいしたがひ、豊後國ぶんごのくに年満としみつおもむく。ついに、天正十四年十二月十二日、討死うちじにす。年三十三。

喜多きた七太夫長能をさよし 幼名ようめう八之丞
當津いちの町中はまさん也。北莊きたのしやうさくらの町に住居ぢうきよし、ちゝ願慶ぐはんけいといふ醫師くずしにして、長能をさよしあに萬之丞まんのぜうといふ。七太夫、幼年ようねんより當津のかん太夫といふ能師のうし弟子でしと成、舞曲ぶきよく妙手めうしゆを得たり。それより、此りう天下にひろまりて、孫弟そんてい今に多し。七太夫、豊臣とよとみ秀頼ひでよりこう召仕めしつかはれ、つひに大坂一らん討死うちじにす。

車屋くるまや道説だうゑつ
車屋くるまや道説だうゑつは、もと今春こんはる太夫が弟子でし也。當津車町くるまのちやう中濱なかはまに住し、師傅しでんうちより一りう唱句しやうくゑらび、自筆じひつして彫刻ちやうこくし、ひろむ。これを車屋本くるまやほんといふ。もとは七十五ばんなるを、あらた加増かぞうして、百番の謡曲本ようきよくほんとなす。

土佐とさ久翌きうよく
土佐とさ久翌きうよくは、もともの上にして、天正年中の人也。其子を源左衛門といふ。舎弟土佐将監しやうげん光起みつおきは、寛永年中より京都に住す。

げん南江なんこう
いみな宗沅そうげんあざな南江なんこう 濃州じやうしうの人也。洛陽相國寺しやうこくじ雲溪うんけい和尚の上そくにして、永享ゑいかう四年、堺南葦原あしはら海濱かいひん草庵さうあんむすび、みづから無菴むあんと号す。ある時、一休和尚にゑつして、狗子無佛性ぐしむぶつしやうによつて、投機とうきしようつくる。
 妾是多情郎薄情  長門春雨カモシ愁成
 銀屏宛転還飛散  乍有作無サウサム啼鳥聲
 【注:送りがな、返り点を付けると表示が崩れ判る辛くなるため省略しています】
一休和尚これを聞て嘆美しやうびす。寛正四年なつじやくす。年七十七。

木戸きどさく右衛門
木戸きどさく右衛門は、小西こにし行長ゆきなが家士かし也。朝鮮國てうせんこくに於て武功ぶこうあり。のち主殿頭とのものかみにんず。支族しぞく今尚いまなを、堺津にあり。

甫竹ほちく
茶杓ちやしやく細工の名人めいじん也。利休より伝授でんじゆし、又、古田ふるた織部おりべならひをうけて、に知らる。時々よりより、将軍家へたてまつる。子孫しそん、今に甫竹ほちくと名乗る。

連歌師れんかし宗椿そうちん
連歌師れんかし宗椿そうちんは、牡丹花ぼたんくはの門弟也。うたみちこころざしふかく、逍遥院殿せうようゐんどのにも時々よりより謁参ゑつさんし、又、[源氏物語げんじものがたり]を書寫しよしやしける事、二十およべり。たぐひなき事とぞきこへし。重病ぢうびやうかゝり、今般際いまはのきはまでかの物語ものがたりかきけるが、朝顔あさかほまきにいたりてぼつしける。此由このよし肖柏せうはくきゝ給ひて、
  筆にそめこゝろにかけしちきりとやおりしもきへし朝顔あさかほつゆ                       牡丹花

今井いまゐ宗久そうきう

ほう太閤たいこうさかい名器めいきあつめさせ給ひ、北野きたの茶湯ちやのゆの時かざらせ給ふ。今井宗久が珍器ちんき、第四番となるとぞ聞へし。
今井いまゐ宗久そうきうは、堺津の人也。永禄えいろく八年、茶器ちやきたいらの信長のぶながけんず。天正六年、又、ちやけんず[信長記]。同十三年、秀吉公、らく北野きたの茶会さくはいもよほす時、堺津茶道家さだうか珍器ちんき座間ざかんおかしむ。宗久が秘蔵ひさう茶具ちやぐ、第四ばんとなる。其子宗薫そうくんあひつゞひ茶道ちやのみちよくす。父子ふしたゞに茶道さだうよくするのみにあらず、ときのぞんで、まゝ忠節ちうせつあり。故に、所領しよりやう千三百石をたまふ。

今井宗久ゆかりの地

いまそうきゅう(永正17年(1520年) - 文禄2年8月5日(1593年8月31日))は、安土桃山時代の堺の商人、茶人である。子に今井宗薫。家系は尼子氏の一族とも。千利休、津田宗及と共に茶の「三大宗匠」と称せられた。名は彦右衛門、兼員、号は昨夢斎。屋号は納屋。
大和国(奈良県)今井の出身。祖は近江佐々木氏の末裔で近江国高島郡の今井氏という。堺に出て納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鴎に茶を学ぶ。やがて紹鴎の女婿となり、茶器などを譲り受けたという。天文23年(1554年)には大徳寺塔頭大僊院に百七十貫を寄進。この頃すでに財を成し、新興の豪商として台頭していた。
永禄11年(1568年)10月、上洛した織田信長に摂津西成郡芥川で相見え、名物の松島の茶壺や紹鴎茄子などを献上。いち早く信長の知己を得て、足利義昭からは大蔵卿法印の位を授かる。同年、信長が堺に対して矢銭二万貫を課した際、会合衆たちが三好氏の力を背景に徹底抗戦の姿勢を見せたのに対し、宗久はこの要求を受け入れるよう信長と会合衆の仲介を行い、これに成功する。
これ以降、宗久は信長に重用され、さまざまな特権を得る。永禄12年(1569年)には、堺近郊にある摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権と代官職、淀過書船の利用(淀川の通行権)を得て、元亀元年(1570年)には長谷川宗仁とともに但馬銀山を支配する。また、代官領に河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造にも携わった。これらにより、会合衆の中でも抜き出た存在として堺での立場を確実なものにし、信長の天下統一を支えた。また、茶人としても千利休、津田宗及とともに信長の茶頭を務めた。
信長の死後には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)にも仕え、堺の万代屋宗安、住吉屋宗無とともに秀吉の御咄衆を務めた。また茶頭として天正15年(1587年)に秀吉が開催した北野大茶会に協力する。しかし、秀吉は宗久よりも新興の薬種商・小西隆佐(小西行長の父)や千利休らを重用したため、信長時代に浴したほどの地位ではなかったと考えられている。文禄2年(1593年)に死去、享年73。著作に茶会記録の『今井宗久茶湯書抜』や『今井宗久日記』など。
墓所は大阪府堺市の南宗寺塔頭臨江寺にある。 大和国今井にゆかりのある茶室「黄梅庵」が堺市の大仙公園に在る。

今井屋敷跡

  
今井屋敷跡碑
今井宗薫そうくんは、堺の豪商で茶人の今井そうきゅうの長男として生まれ、茶の湯を父に学び、豊臣秀吉の近侍となった。秀吉の死後は徳川家康の寵をうけ、関ケ原の戦いで功をあげて、河内・和泉二国の代官となった。堺市五ヶ荘花田に屋敷があったが、大坂冬の陣に際して関東に通じる嫌疑を受け、家財を没収され、大坂城に監禁された。のち、逃れて城中の様子を家康に伝え、徳川軍に従った。現在地にあった宗薫の屋敷は、織田有楽齋から譲り受けたもので、当時の尺度で東西29間(約55m)、南北32間(約61m)と考えられている。
【出典:屋敷跡案内板】

黄梅庵

  
黄梅庵 大仙公園内
日本の電力の鬼といわれ、また、明治、大正、昭和の三代に亘り、茶道の四天王と称せられた故松永安左衛門(あん)翁が、昭和23年もと奈良県高市郡今井町の今井宗久所領の茶室を、小田原の地に再興されたもので、屋敷内の梅実が黄熟する頃に完成したので黄梅庵となづけ、天下の茶人を招いて茶味三昧の日々を過ごしておられた茶室です。当庵は、八畳の広間に三畳下座床の茶室が接続し、勝手水屋等が附加されている約八十平方メートルの建物です。堺市の市制九十年記念事業の一環として相続人の安永安太郎氏から寄贈をうけ、昭和五十五年十月に大仙公園内の堺市博物館に隣接する当地に移築されたものです。
【出典:黄梅庵案内板】

松井まつゐ友閑ゆうかん法印ほうゐん
松井まつゐ友閑ゆうかん法印ほうゐんは、信長のぶなが刺史ししとして、堺津にあり。元亀げんき元年四月、信長、じやう州より上洛じやうらくあつて、京都、堺ノ津に於て、名物めいぶつ茶器ちやきを上らんありべしとて、此法印と丹羽には五郎左衛門ぜう長秀ながひでと両人の仰付られ、これを奉行ぶぎやうす[信長記]。又、高野山かうやさん武士ぶし三千人つかはされける時も、此法印ほうゐんに其魁将くはいしやうめいぜられき。

乳守ちもりの植女うへめ


さかい乳守ちもり 傾城廓けいせいくはく
男なき寝さめはこわい蚊帳かな       遊女 咲 花
南莊みなみのしやう乳守里ちもりのさとは、當津の傾城郭けいせいくはくにて、つねに、酣歌かんかこゑ舞曲ぶきよくをとたへず。はなあけぼのには遠山ゑざんまゆうるはしく、つきゆふべには蘭麝らんじやのかほりこまやかにして、一笑千金いつせうせんきんにくからず。こゝも、むかしは住吉すみよし社領しやりやうにて、その遺風ゐふう、今にあり。毎歳まいさい五月廿八日、住吉すみよし神田みとしろ神事まつりには、此地このところ遊女うかれめ五人、薄衣うすきぬ衣裳いしやうて、花笠はなかさみやびやかにかづき、神前かみのまへに出て祭式さいしきつとむ。これを、住吉すみよし御田植女おんたうゑめといふ。此乳守町ちもりちやう家々いゑいゑ暖簾のうれんに、むらさきつける事は、神式しんしき早乙女そうとめよそほ官女くはんぢよして、遊女ゆうじよことなるしるしにや。
    すみよし御田の祭を見て
   植女うゑめて乳もりそだてる若苗わかなへ青田あをたいろをみつゝおのかみ                             斑  竹

岐翁ぎをう
岐翁ぎをうは、一休和尚の弟子也。ある時、師命しめいそむ擯出ひんしゆつせられ、當津の市町六けんすじすんで、集雲庵しううんあんと号す。其後、一居士こじ宗祇そうぎ法師とをたのんで、勘気かんきゆるされける。一休、しからばわが太刀持たちもちにすべしと也。今に、一休の肖像せうぞうかたはら太刀持たちもちは、この岐翁ぎをう也。もとも波瀾はらんうごかさず、禪心ぜんしん鉄石てつせき名僧めいそう也。其後、南宗寺なんしうじきようつし、今に、集雲菴しううんあん開基かいきとする也。

松山まつやま新助しんすけ
松山まつやま新助しんすけは、堺津の人也。永禄ゑいろく年中、三好家みよしけあつて、爪牙さうがしん也[太閤記]。其はじめは、本願寺の番士ばんしにてありしか、天性てんせいゆうやさしく、物事ものごと直成まめやかに、よろづ裁判さいばんあきらかなり。其上そのうへ小皷こつゞみ尺八しやくはち早歌さうが藝態げいたいにもたつし、高家かうけ貴人きにん立入たちいり置酒ちしゆしてけうもよほす。やゝもすれば對陣たいじんにも及ぶべきを、新助しんすけ辨舌べんぜつにてしきければ、おさまりしことおほかりき。

意雲ゐうん
意雲ゐうんは、後土御門帝ごつちみかどていときひとにして、圍碁ゐご良手りやうしゆ也。泉南せんなん居住きよぢうし、可竹かちくがうし、又、皓隠こういんともいふ。

そう泉南せんなん
そう泉南せんなんは、當津商家しやうかの産也。真言律宗しんごんりつしうしうし、老後らうご京師けいし梅小路うめがこうぢ水薬師寺みづやくしじぢうし、手跡しゆせきもはらとし、祝枝山しゆくしさんたり。墨蹟ぼくせき多し。近年、明和六年巳丑二月朔日、寂す。年七十。

さかい舜慶しゆんけい
さかい舜慶しゆんけいは、當津に数代すたい居住きよぢうの人也。尾州びしうおもむき、瀬戸せとに於て茶器ちやきせいし、又、伊勢いせに於てもせいす。いづれもさかい舜慶しゆんけいぶ。その子孫しそん利休りきう居士こじまで、堺に居住しけると也。

道陳だうちん
道陳だうちんは、當津舳松町へのまつちやう北向きたむきといふ所のさん也。数寄すきみち執心しうしんせられし。
はじめは、洛陽らくやう東山ひがしやま銀閣寺ぎんかくじに、慈照院じせうゐん義政公よしまさこうまします時、その茶道さだうに、能阿弥のうあみ相阿弥さうあみとて二人あり。能阿弥のうあみ老後らうご當津におもむき、空海くうかいあらためける。世人よのひとこれを聞て、弘法こうはう大師だいし同名どうめうなんぜしかば、空海くうかいこたへて、には釋迦<院しやかゐん阿弥陀寺あみだじとさへつくるに、弘法こうはう何かくるしからんといへり。道陳だうちん、此老人らうじんつね寝食しんしよくおなじうし、唇歯しんしまじはりをなしけり。其上そのうへ大林たいりん和尚の徒弟とていとなる。道陳だうちんいゑ元来もとより富有ふゆうにして、財寶ざいほう珍器ちんき田畠でんばたまであまたもちけり。紹鷗ぜうおうこゝろあはせ、南宗寺なんしうじ再興さいこうせり。

北向道陳ゆかりの地

北向道陳きたむきどうちん(永正元年(1504年)-永禄5年(1562年)) は、茶人。堺の舳松へのまつ町に住む。千利休の初期の師。
本姓は荒木。家が北向きだったため「北向」と呼ばれた(堺、北向町に住んでいたからとも)。本職は医師であるとされるが、謎が多い。能阿弥の小姓島右京(空海)に茶道を学び、唐物の目利きに優れていた(道陳好み)。利休を武野紹鴎に引き合わせたとされることでも有名。
紹鴎の「わび茶」「草庵の茶」に対し、「台子の茶」「書院の茶」を伝えていたと考えられ、利休が道陳の下から去り紹鴎に師事することになったのも、そのためと考えられる。
茶室は西向きに構えていたが、ある人が「西向きだと光線が不安定でよくない」と言ったところ、「茶会は朝にしか開かない」と答えたという。

北向道陳墓碑
  
妙法寺 曽呂利新左衛門墓碑と隣り合わせに立つ北向道陳の墓碑

高三たかさぶ隆達りうたつ
高三たかさぶ隆達りうたつは、もと日蓮宗にちれんしうそう也。當津顕本寺けんほんじぢうす。ゆへあつて還俗げんぞくし、高三氏たかさぶうぢいゑにて薬種やくしゆあきなふ。として、小歌節こうたふしを一りううたひいだしけり。世人よのひと隆達流りうたつりうとて、其頃そのころおほひうたふ。

高三隆達ゆかりの地


顕本寺 隆達碑

文阿弥もんあみ
文阿弥もんあみは、堺の人也。性質せいしつ瓶花へいくはたしなむ。将軍しやうぐん義輝よしてる公、妙手めうしゆ六人にめいぜられ、花論くはろん二十でう編輯へんしうせしむ。此人、其壱人也[江源武鑑]。

宮尾みやお道三だうさん
宮尾みやお道三だうさんは、今春こんはる及蓮きうれん家人けにん也。此に来て上源しやうげん町に住す。今春こんはる家傅かでんうたいなかより、又、一りううたひ出すにより、宮尾流みやおりうとてに用ゆ、これのみならず、利休りきうしたが茶道さだうたしなむ。此人のむすめは、すなはち利休りきうしつとなる。ある時、短檠たんけいはしら持所もちところ手懸てがゝりに、燈心とうしんもたせける。これより、後世こうせい、此室家しつかこのみしやうじける。

遊女ゆうぢよ地獄ぢごく


きう和尚をしやうは、さかい髙須たかすにて、遊女ゆうぢよ地獄ぢごくといふをよんであそびたはむれ、酒興しゆけうのうへにて、
  三乗四諦無さんじやうしていみちにあらずといふことなし
うたひたまへば
  万法千門只此心まんはうせんもんたゞこのこゝろ
ついで、ともにうたひたはむれける。
むかし、當津北莊髙須たかすすみし也。今も遊女町也。十軒許あり。此遊女ゆうぢよつらつらおもふに、うきかはたけのながれのとなる事、さきの世の戒行かいぎやうつたなきゆへなり。未来みらい地獄ぢごくにやおちざるらめ。せめて懺悔ざんげのため、地獄ぢごくつけて、呵責かしやくつみを今のにてのがれ、のち安養あんやう浄土じやうどうまれ、うつくしきほとけとならんと、くちには風流ふうりう唱歌こうたうたひながら、心にはほとけのみなをとなへて、弥陀みだのちかひをねがふ。此名世に名髙なたかく、こと國色こくしき美艶びゑんにて、かたちやなぎいとのたをやかに、はだへたまの匂ふがごとく、遠近ゑんきんこゝにむれければ、一きう和尚もこゝに来り、遊女ゆうぢよを見給ひて、
  きゝしより見ておそろしき地獄ぢごくかな                            一休
  こゝろのおに手引てびきせられて                             遊女 地獄
一休和尚これを聞給ひ、まことに此遊女は三乗さんじやう四諦していみちつうずよと、れいをなしさり給ふとぞ。
    髙須たかすの遊女町に来て
  南北のみな鳥ともがとらるゝはたゞ一もつのたかす也けり          半井卜養

恵藤ゑとうげん左衛門
恵藤ゑとうげん左衛門は、横笛わうてきの上にて、北莊きたのしやう矢蔵下町やくらのしたちやうに住す。其頃、常楽寺じやうらくじ成就坊じやうじゆばう什寶じうほうに、名笛めいてきのありしを所望しよもうし、わが師匠ししやうの中村備中びつちう入道にうだう一噌いつそうといふ者のをしゑをうけ、きよう指田さしだなをさせて、常楽寺じやうらくじにてのうありし時、此ふゑふきければ、金堂こんだうひゞきて、のきかはらおちけるゆへ、名人めいじんほまれ世に聞へければ、近衛殿このゑどのよりふゑかゝせられ、めい瓦落かはらおとしなづけ給ふ也。此名笛めいてき恵藤ゑとう弟子でし藤田ふぢた清兵衛ゆづりうけ尾張おはり大納言だいなごん義直よしなをきやう御扶持人ごふちにんとなりけるよしきこへし。

聟入むこいり一休いつきう


聟入むこいりきう
                               狂歌
                                 一きう聟入むこいり万事ばんじ無一物むいちもつ
                                  志ばしあふぎのそらこと也
                                               衆雲
聟入むこいり一休いつきうといふは、和尚をしやう住吉すみよし牀菜菴しやうさいあんすみ給ふとき當津たうつ甲斐かひ中濱なかはま、扇屋甚右衛門といふ者の所へ、時々よりより来入らいにうし給ふ。甚右衛門がいゑひんにして、よろづとぼしく見へければ、これをあはれみ給ひ、扇の地紙を多く取よせ、からすかき、又は銀臺ぎんだいなとをかき給ふ。世人よのひとこれを賞翫しやうくはんし、かふいちをなしければ、暫時ざんじとくついて、大福だいふく長者ちやうじやと成にけり。俗諺ぞくげんに、一休和尚は扇屋がもと入聟いりむこし給ふと、其頃、けうじけると也。
    あるものこれを見て狂歌をよみける
  一休がくろころもきて聟入はあふぎにかいたからすなるらん

一節いちせつ道清だうせい
一節いちせつ道清だうせいは、つゞみどうつくりあきなふ。塗胴ぬりどうなりをとれりとて、木地きぢを用ゆ。世人よのひとうぢめいよんで、一節胴いちせつどうとぞしやうじける。

松井宗誾そうぎん
松井宗誾そうぎんは、代々よよ當津に住して、醫師くすしなりはいとす。又、歌道うたのみちにも心をかけて、古今こきん傅授でんじゆもしける也。初は次郎と号し、前代せんだいには和氣わけ氏といふ。後醍醐帝ごだいごていの御時、射術しやじゆつを以て恠鳥けてう射落いおとしければ、御悩ごのう平愈へいゆし、其化鳥けてうおつる所、井のほとりにして、松篠まつさゝありしより、和氣わけあらためて、松井と氏をたまふ。紋所もんどころには彼篠かのさゝを用ゆ。

利玄りげん
利玄りげんは、日蓮宗にちれんしう僧徒そうとにして、の上也。南みなと村の海濱かいひんに、いおりをむすんで住す。寛永の頃には、もはらじゆつを以て天下に名高し。

中象棊ちうしやうぎ温故をんこ
中象棊ちうしやうぎ温故をんこは、北莊荘妙國寺めうこくじの境内、法林坊に住して、日蓮宗の僧侶そうりよなり。このんで中将棊ちうしやうぎよくす。或時あるとき後水尾ごみづのお法皇はうわう温故をんこを召て、法橋ほつけう宗知そうち勝負しやうぶけつす。温故をんこりやうくはいかちを得たり。

しゝくひなにがし
しゝくひなにがしは、堺の人也。元亀げんき年中、土佐守長曾我部ちやうそかべ元親もとちかしゝくひを以てこゝろざし信長のぶながつうず。つひに、信長の幕下ばくかしよくす。

九鬼くき右馬頭うまのかみ嘉隆よしたか
九鬼くき右馬頭うまのかみ嘉隆よしたかは、信長のぶながめいかうむり、天正年中、堺津にあつて、兵舩ひやうせん数多あまたつかさどる[信長記]。

鉢鍜治はちかぢ宗鐡そうてつ
鉢鍜治はちかぢ宗鐡そうてつといふは、已前いぜんかぶと鉢鍜治はちかぢの上也。千利休せんのりきうの頃より、もはら数奇屋すきや鐡物かなもの細工さいくを仕ける也。名人めいじんほまれたかし。

更新履歴
更新:2014年10月14日 23:38:56 人物ゆかりの地を追記
作成:2014年 8月12日 14:02:56 再構築
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