カレンダー
前月2017年 7月翌月
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
News News  
Photos Photos  
Blog Blog  
アクセスカウンタ
今日 : 5760
昨日 : 8013
今週 : 47712
今月 : 172474
総計 : 1294225
名所図会 巻1-07 開口大明神社

くち大明神社


三村みつむらのやしろ
俗に大寺おおてらとも云

南荘、甲斐かひ町の東にあり。又、三村みつのむら明神とも号す。
ちんみつじやうさん念佛ねんぶつといふ。真言の霊場なり。又、大寺ともいふ。祭神、事勝ことかつ勝國かつくに長狭ながさのみこと[延喜式]神名帳に載す。これを式内と云。
[住吉旧記]云、くち明神は、伊弉諾いさなぎのみことおん事勝ことかつ勝國かつくに長狭ながさなり。後に、いくたまのしん牛頭ごづ天王てんわうあはせて、住吉すみよしぐうと穪す。故に、朝廷てうていより、廿年に一たび、住吉のやしろ造替ざうたいごとに、当社も造改ざうかいある。たうきやういにしへあな郷内がうないくちむら、木戸村、はら村のあいだ也。故に、三村みつのむら明神と号す。開口は此地の旧名也。木戸、原は、今、大小路の西南にして、田畑てんはたとなる。神功じんぐうくはうぐう韓國からくにせいし給ひ、凱陣がいぢんの時、いくさぶねさう、此浦につきたる所を、後世こうせいさう小路といひ、ふねへさきまつつなぎしにより、舳松へのまつといふ。明神、皇后と共に、こゝに於て、御食みけすゝめ給ふ時、くちひらきましますにより、くちの名あり。みそぎだんくちだんといふは、此もと也。りやうひかりやはらげ、やくちりおなじうし給ひ、こゝを念佛ねんぶつがうするは、しやうていぐはんにして、ぎやうそうじやうかいし給ふ。しかつしてこのかた代々よゝ勅願ちよくぐはんしよとして、りん院宣ゐんせんしやうぐん文書もんじよ、数々あり。

末社
弁天社、天滿宮、こん比羅ひら舩玉ふなたま社、外宮太神宮、内宮太神宮、蛭子社、大黒天、稲荷社、荒神社、秋葉権現。

金堂こんとう
中央、藥師如来。左、釈迦。右、弥陀。日光、月光、十二神将を安す。明暦元年の建立也。

三層さんそのたう
大日如来、聖德太子、四天王を安す。寛文三年の建立也。

鐘樓しゆろう
かねは、当所の刺史しし、長川左兵衛尉守尚もりひさの再営也。

食堂じきだう
ぎやう弘法こうばうゑんのぎやうじやを安置す。

とり
石柱、三村みつのむら明神の額は、竹内たけのうち良尚しやうしやう法親王はうしんわうの御筆。

西さいもんのがく
みつじやうさんと書す。上と御同筆。

瑞森みつのもり
當境、うしとらの方にあり。瑞森大明神はさのをのみこと也。今、此地に堂を建て、藥師如来を安す。みたけ、壱尺五寸。相傅、此所に井ありて、いにしへより結界けつかいの地、大寺のしよ也。ことわ ざ云、堺浦のうらばうといふてん、こゝにすみしと也。[源平盛襄せいすい]曰、柿本かきのもとそうじやうたかみねに入ッて大慢心まんしんを起し、太郎坊となる。又、和泉國堺浦に、紀僧正と名を同じうするものあり。大慢心まんしんを起し、をにとなる
たうほうきやうはう壱町ばかりにして、しう六坊、西にし二坊あり。つね詣人けいじん間断たへまなく、かみまへにぎはしく、賈人あきひとたなのきをならべ、軍書ぐんしよはなしくちひやうあやつりしば歌舞伎かぶききやうげん三弦さみせんたいをとゆゝしく、たうおいて、繁花はんくわ冣一さいいち也。ぞく、こゝを住吉すみよし奥院おくのゐんしやうするは、あやまりならん。

今の開口神社


山之口商店街から入る西の鳥居

市道錦南宗寺線から入る東の鳥居

開口神社社殿
  
西の鳥居前に据えられた常夜燈 三村大神宮、住吉奥院と刻まれています

開口神社ご由緒

祭神は、塩土老翁を主神とし、素盞鳴尊・生国魂命を配祀している。延喜成による式内社。
 当社の祭神考によると、神功皇后摂政2年石津北原で 天神地祗を祭った際、老漁夫が赤目の魚を献じた。神功皇后は、これを瑞兆として、その地に塩土老翁を祭らせたのが、当社のおこりとされており、住吉神社の別宮、或は奥院と考えられていた。
 天永4年(1113)原村鎮座の素盞鳴尊、木戸村鎮座の生国魂命を開口神社に合祀して、開口・原・木戸の三村の産 土神とし、開口三村大明神と称した。
 これより先、行基がこの境内に念仏寺を建立し、僧侶が社務をもったので、大寺とも呼ばれた。
「大寺縁起絵巻」「伏見天皇宸翰御歌集」「短刀銘吉光」は、国の重要文化財に指定されている。
また、開口神社文書は史料的に高い価値を占めている。
 南荘(大小路以南)の氏神としてのみならず、広く旧市域内タトの人々の信仰を集めている。
【出典:堺市設置案内板】

開口神社
(通称大寺さん)
【由緒書】
開口神社
堺市堺区甲斐町東2丁鎮座

【御祭神】 塩土しおつち老翁おじのかみ
       さのかみ
       たまのかみ

【創  建】
神功皇后(約千七百年前)の勅祭により創建せらる

【由  緒】
当神社は神功皇后三韓より帰られし時、この地に塩土老翁神を祀るべしと詔し給ひてお祀りしたのが当神社の起源と伝えられています。
敏達天皇拾年八月掃守連矢負を遣して奉弊し神戸かんべ(神社の神田、神領)を定められました。
醍醐天皇延喜の聖朝式内の祀典(式内社)に列せられ従五位上を授けられ承平貳年五月正五位上に進められました。
その後、鳥羽天皇天永四年原村(今の仁徳陵の附近)に座す素盞鳴命木戸村(所在不詳)鎮座の生国魂命を当社に併せ祀り開口三村大明神と号し堺の氏神として崇敬されました。当神社所蔵大寺縁起(重要文化財)記載によりますと、聖武天皇天平十八年詔勅により社殿を造営し翌十九年八月朔日勅祭あらせられ社領を定めらるとあり、朝廷武家の尊崇篤かりし事は寄進された多くの社宝に明らかです。
当神社の主神塩土老翁神様は住吉の大神様(上筒男、中筒男、下筒男)を一つにしてその御神徳を現わしたと云われる神様で昔から住吉の奥の院と云われます。又神社の創立が古く市中の要衝に位置する為維新後は県庁市役所を設けられたり、三国丘、泉陽等の今の高校の前身がこゝに設けられた事もあります。
明治六年郷社、明治三十五年四月三十日府社に列せらる。
昭和二十年七月十日戦災のため社殿建造物焼失しましたが、氏子崇敬者の熱心なる努力により昭和三十八年御本殿拝殿の新築なり昭和四十年儀式殿(瑞祥閣)が新築されました。

【社  紋】
当神社の社紋は三つ茄で珍らしいものです。もと御祭神に関係のある巴でしたが白鳳年間に氏子の中より一つのがくに茄子が三つ出来たこれはおめでたい事だと奉納され三つ巴が茄子に変ったと伝えられています。
明神は墨の江ながら御紋こそ
  三つむらさきの茄なりけれ
正親亜相公通卿の自画自賛があります。

【境内神社】
豊竹稲荷神社  白髭神社  松風神社
塞神社(庚申さん)  竈神社(荒神さん)
巌島神社(弁天さん) 舳松神社  北辰神社
楠本神社  三宅八幡神社  少彦名神社
恵美須神社(戎さん)  大国魂神社(大黒さん)
神明神社  豊受神社  熊野神社  舟玉神社
菅原神社  産霊神社  兜神社  薬師社

【宝  物】
古来勅願所でしたので公武の崇信篤く寄進された宝物すこぶる多く殊に大寺縁起(土佐光起画、公卿二十五人筆の絵巻物)伏見天皇冬の歌百首(伏見天皇御震筆)吉光短刀(粟田口吉光の短刀)は(旧国宝)重要文化財に指定されています。
其他古文書類多数あり近く一冊にまとめて出版します。

【豊竹稲荷神社】
稲荷大神が顕われ給ひて奇跡を行われたと伝えられる古木があり御祭神をお祀りしてある御社殿割拝殿等が整っていましたがこれも戦災の為焼失し戦後は末社を集めて一棟にお祀り申し上げましたが此度崇敬者の皆様の御尽力により立派に社殿が復興されました。
毎年春秋の午の日を選んで大祭を行います。

【瑞森薬師】
境内神社薬師社は行基菩薩自作と伝えられる薬師如来像をお祀りしてあります。昔境内に大きな楠がありこの樹に三浦坊と云う天狗が常住したとの伝説があってここが聖地であるとして聖武天皇行基に命じて大念仏寺を建てしめ行基の作った薬師如来像を安置したと伝えられています。この像が大念仏寺(大寺)の本尊ですが明治維新の時、神仏を別け寺を廃寺にすることになり神社んのみの神域になりました。この時薬師像の威徳を讃仰し崇敬する者多くひそかに社内にお祀りしましたが、先般百年振りに社殿を造り薬師社としてお祀りしました。

【恒例神事】
1月1日    元旦祭
1月3日    元始祭
1月15日   とんど祭
2月節分    節分祭
2月11日   建国祭
2月17日   祈年祭
3月春分    春分祭
4月3日    神武天皇祭
        天皇誕生祭
5月3日    憲法記念祭
5月5日    端午祭
6月30日   大祓式
7月12日   夏季祭
9月12日   例大祭 渡御
9月13日   田実祭
九月秋分    秋分祭
11月3日   文化祭
11月12日  冬季祭11月23新嘗祭
12月31日 除夜祭大祓式

【出典:開口神社由緒書】


開口神社は奈良時代には開口水門姫神社と称しており、最古の国道と言われる竹之内街道の西端にあって大阪湾の出入口を守る神社で、神功皇后勅願によって建立されたと伝えられます。堺の集落はこの辺りから発展し、町となって来ました。
その後、平安末期の天永4年(1113年)開口・木戸・原村の神社が合祀され堺の総氏神として崇敬を集め、また江戸時代まで念仏寺というお寺が境内に在った事から今も大寺さんといわれ親しまれています。

【御祭神】 塩土老翁しおつちのおじのかみ
素盞嗚すさのうのかみ
生国魂いくたまのかみ

【創建】 神功皇后の勅命による(西暦200年頃か)

【社格】 「延喜式」神名帳(記載) 「式内社」

【境内神社】 豊竹稲荷神社 ・ 白髭神社 ・ 松風神社 ・ 金比羅神社 ・ 塞神社(庚申さん)・ 竈神社(荒神さん)
厳島神社(弁天さん) ・ 舳松神社 ・ 北辰神社 ・ 楠本神社 ・ 三宅八幡神社 ・ 少彦名神社
恵比須神社(戎さん) ・ 大国魂神社(大黒さん) ・ 神明神社 ・ 豊受神社 ・ 熊野神社 ・ 薬師社
舟玉神社 ・ 菅原神社 ・ 産霊神社 ・ 兜神社

【歴史年表】
西暦
和暦

仲哀天皇期
神功皇后の勅願により御創建 伝承
530
敏達天皇10年
掃守連矢負を遣わし神戸を定める 伝承
680 前後 白鳳年間
巴紋から三つの茄子の社紋への変化の故事有 伝承
731
天平 3年
住吉神社(大社)神代記に記載
746
天平15年
念仏寺建立(この項大寺縁起による)神仏習合の始まり


8月1日聖武天皇行幸 伝承
806
大同元年
空海宝塔建てる 伝承
927
延長 5年
延喜式登載
932
承平 2年
神階正五位上に進む
1113
天永 4年
開口・木戸・原村の三社併合


これより俗に三村宮又は三村明神と云われる
1174
承安 4年
一切経蔵建立


1187
文治 3年
指画文書-堺最古の現存文書
1375
永和 元年
念仏寺年中行事成る
1425
応永32年
女院御所光範門院祈願所となる


念仏寺塔婆造替日時勘文
1427
応永34年
足利義持祈願所となる
1483
文明16年
三村社祭礼記録-宮座記録
1535
天文 4年
千利休初見-念仏差帳日記
1579
天正 7年
大寺名初見(津田宗及日記)
1586
天正14年
豊臣秀吉より80石朱印状を受ける
1655
明歴元年
遷宮-徳川家宣
1663
寛文 3年
三重塔再建
1690
元禄 3年
大寺縁起絵巻上梓

元禄期
鉾祭礼に出る
1721
享保 6年
谷善右衛門神興寄進
1868
慶応 4年
8月26日より28日迄明治天皇御即位御祈願
1868
明治元年
9月28日より10月5日迄東京行幸禁裏御祈願
1873
明治 6年
郷社となる
1874
明治 7年
女紅場(現泉陽高校)境内に設置される
1889
明治22年
堺市役所境内に置かれる
1895
明治28年
府立第二尋常中学(現三国丘高校)境内に開設
1902
明治35年
府社となる


神楽殿建立
1910
明治43年
大寺縁起国宝指定
1914
大正 3年
堺市立幼稚園(現第一幼稚園)が境内に設置される
1915
大正 4年
客殿建立
1921
大正10年
吉光短刀国宝指定
1945
昭和20年
7月10日戦災により境内堂宇全焼す
1950
昭和25年
大寺縁起、短刀銘吉光重要文化財に指定
1953
昭和28年
伏見天皇宸翰御歌集 冬百首重要文化財に指定
1964
昭和39年
本殿拝殿再建
1966
昭和41年
儀式殿 瑞祥閣竣工
1970
昭和45年
創建1700年式年大祭斉行


開口神社史料上梓


玉垣、灯篭等整備
1985
昭和60年
20年式年祭斉行
1989
平成元年
境内の戦災復興整備終える


末社整備竣工


参道石畳等境内整備

境内社殿


薬師社 (内部非公開)

 
薬師社扁額「瑞森瑠璃殿」                    薬師社安置 薬師如来座像
【薬師如来座像の画像は、堺文化財特別公開のパンフレットの画像を使用しました。】
この薬師社「瑞森瑠璃殿」は行基菩薩自作と伝えられる薬師如来像をお祀りしてあります。昔境内に大きな楠がありこの樹に三浦坊と云う天狗が常住したとの伝説があってここが聖地であるとして聖武天皇行基に命じて大念仏寺を建てしめ行基の作った薬師如来像を安置したと伝えられています。この像が大念仏寺(大寺)の本尊ですが明治維新の時、神仏を別け寺を廃寺にすることになり神社のみの神域になりました。この時薬師像の威徳を讃仰し崇敬する者多くひそかに社内にお祀りしましたが、先般百年振りに社殿を造り薬師社としてお祀りしました。

【出典:開口神社由緒書】


  
境内神社 左より 豊受、神明、琴平、三宅八幡、兜、厳島、熊野

  
境内神社 左より 楠本、舟玉、少彦名、恵美須、大国魂、北辰、産霊

  
影向石

境内神社 兜神社
  
開口神社境内神社 兜神社
  
宿院頓宮 兜神社舊蹟碑

【舊蹟碑裏面の碑文】
「兜社 往古 神功皇后自三韓御凱旋之時藏冑祭地也。明治四十一年一月官許遷開口神社域内
     昭和拾年七月建之」

この碑文によれば、
この兜神社は、神功皇后三韓征伐御凱旋のおり、此地に甲冑を納め祭った所。明治四十一年(1908)一月、行政(この場合はどこになるのか?)の許可を得て開口神社に遷した。それを記すため昭和十年七月にこの碑を建てた。
 ということで、開口神社の境内神社として今も祭られています。

念佛寺 梵鐘

本願寺鐘樓 (元 念仏寺梵鐘)
現在本願寺堺別院の鐘樓にある梵鐘は、元和3年(1617)の銘をもち、銘文によれば、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で焼失した念仏寺(開口神社の神宮寺)のために、堺の復興や新しい町割の実施に努めた堺奉行長谷川藤広が再鋳させたものです。その後、明治初期の廃仏毀釈にともない、堺別院に移されたものです。
 江戸時代はじめの堺の復興にかかわる歴史的状況を示す記念碑的な資料であるとともに、現在のところ年代の明らかな市内最古の梵鐘としても貴重です。
 兵火で焼亡した旧鐘を模したためか、造形的には、中世鐘の形式を色濃く残す点に特徴があります。

今の旭蓮社 舳松神廟


境内神社 舳松神社は、旭蓮社の鎮守として鎮座していた舳松神廟。

舳松神社の舊址

寺の北門前は謂はゆる九舳小路にして、九本松町或は舳松とも呼び、門内は、村社 舳松神社のありし所なり。社は一に九本松とも呼び、勸請の年月等は詳ならざれども、社名は地名に因みしものなるべし。境内は壹百餘坪を有し七社神社及び、高津神社といへる末社を存し、七社神社はもと寺の鎮守にして、高津神社は傳へて大仙陵の遥拝殿といひしが、社は明治四十年五月二十一日開口神社境内末社に合祀さられて今はなし。
【管理人注釈】文頭の「寺」は、旭蓮社のことです。
【出典:大阪府全志】

八朔祭

  
八朔祭で宮入するふとん太鼓
大甲濱                  大南戸川(隅田)

  
大甲濱                     芦原濱

  
新在家濱                     大南戸川(隅田)
秋例大祭で、旧暦8月1日(朔日)豊作・豊漁に感謝して執り行なわれる開口神社最大の祭で300年以上の歴史があります。
今日の堺市の祭礼は、八朔祭をはじめ、主に秋祭りとなっており、その際に、太鼓台等の練物が運行されています。明治時代まではだんじりが一般的で、ほかにも船地車が曳行されていました。しかし、明治29年の旧暦八月一日の祭礼で、堺市中之町西の紀州街道(地車が1台通れるほどの細い道であった)において、湊組の船地車と北の鍛治屋町地車が鉢合わせとなり、お互い道を譲らず争論となり、あげくの果てには周辺民家の瓦を剥がし瓦合戦になってしまい、湊組が突きかかり2名の殺傷者を出してしまいました。堺警察の警官が数十名駆けつけ双方の数十名を捕縛しました。この事件は「堺の地車騒動」といわれています。この事件より祭礼には地車は一切曳行してはいけなくなりました。
 後に日本は日露戦争に勝利しそれを祝し、翌年明治39年練物曳行は許可されるようになりました。
その翌年に菅原神社の北開仲、北浜、並松町 船待神社の西湊が地車に代わり”ふとん太鼓”を新調しそれぞれの神社に奉納しました。この年より4、5年の間に開口、菅原、方違、船待神社の氏子仲が次々にふとん太鼓を新調し奉納しました。 特に一番多くのふとん太鼓が奉納されたのは”菅原神社”で、多いときには十四台にも及びました。昭和16年第二次世界大戦が勃発しましたが、戦意高揚を図るため昭和19年までふとん太鼓が担がれ奉納されていました。しかし、昭和20年に堺も大空襲に合い、ほとんどのふとん太鼓が焼失してしまいました。 現在、開口神社には4台のふとん太鼓が奉納されています。その中で、大南戸川(隅田)のふとん太鼓は作られてから百年以上の歴史がある太鼓台です。

次ページに「大寺縁起」を掲載しています。興味がある方はご一読ください。

大寺さんの思い出
「この項ただいま編集中です。」

更新履歴
更新:2014年10月13日 15:34:55 今の開口神社を追記
作成:2014年 8月12日 21:05:27 再構築
プリンタ用画面
友達に伝える
前
名所図会 巻1-06/大鳥郡
カテゴリートップ
TOP
次
名所図会 巻1-07-02/大寺縁起