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名所図会 巻2-12 悲田院

悲田院ひでんゐん

錦町の東にあり。法護はうご山十萬と号す。

本尊阿弥陀佛
恵心僧都の作なり。

開基恩計をんけい上人
姓は源氏。江州の人也。延徳年中、當院を艸創さうさうす。上人みづから、阿弥陀経十萬巻まんくはん書写しよしやす。故に、世人よのひと、十萬を以て号とす。初は、柳町の濱にあり。抑、聖德しやうとく太子、四天王寺のかたはらに、悲田院ひでんゐん施藥院やくゐんの两院を初たて給ふ。旧趾きうし、今、顕然けんぜんたり。又、桓武くはんむ天皇、平安城にも两院をたてらる。今、此地にある事、詳ならず。按るに、和泉國いづみのくに悲田院ひでんゐんならん歟。

今の悲田院 北十万


北十万 山門



門前に「悲田院跡」碑が立てられています。
 江戸時代、朱印寺であった当院は延徳二年、恩圀衆徳の開基という。衆徳は、自ら阿弥陀経十万巻を書写して十万上人と呼ばれ、寺を十万と称した。(北十萬略縁起)
 当院は、もと柳之町濱にあり、四宇の坊舎をもつ二町四方の境内地を有したが、天正の兵火に罹災し、その後現在地に再興された。後土御門天皇から悲田院の勅額、後水尾天皇からも北十萬の勅額を下賜された。現在境内に残る近世建築は山門のみであるが、規模の大きな薬医門で、十九世紀初め(文化)頃の建築である。
 型通りの薬医門であるが、間口九尺の規模を有し、正面右手に潜り戸が付く親柱にごひらの角柱を立て、柱間に女梁と男梁で挟まれた冠木をのせ、笈形付の大瓶束を置いて棟木を支える。軒は二軒繁垂木で飛檐垂木の先端を細くしている。
全体に保存状態の良い建物で軸部だけでなく、蹴放、妻飾の笈形付大瓶束や破風板拝みの蕪懸魚も当初材である。屋根の垂みが大きな特徴である。
【出典:堺市歴史的建造物調査報告書 堺の寺社建築 一】

更新履歴
更新:2014年10月27日 14:21:37 今の悲田院 北十万を追記
作成:2014年 8月20日 9:29:26 再構築
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