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名所図会 巻2-50 和田新發意墓

和田新發意墓わだのしんほちのはか

同村にあり。俗傅云、貞和五年、新發意しんほち源秀げんしうは、楠正行まさつらと共に、河内苅屋村に戦死す。其家人、遺骸ゆいがいを本土にかくす。今、森の中に寺あり。多門天を安す。相傅和田わだ新發意しんほち守本尊なりといふ。

今の和田新發意墓


宝興山多聞寺


宝興山多聞寺本堂

 名所図会の記述に「同村にあり。」「今、森の中に寺あり。多門天を安す。相傅フ、和田新發意守本尊なりといふ。」とあることから、堺市南区和田の高野山真言宗宝興山多聞寺を連想し探訪したが、確証がある訳ではない。図書館で調べたところ、和田在住の郷土史家で土師楠嘉氏が次のように発表されていました。
【宝興山多聞寺】
 行基の開基と伝えられ、行基作阿弥陀座像、聖徳太子作多聞天像が安置されている。
 明治七年の寺院明細書には、多聞天王立像に、楠公、和田新發意所属と付記されいる。
 多聞寺の寺名については楠公楠正成の幼名の多聞丸に由来する。との伝承もある。
 大阪府全誌に、僧正行基の開創にして、本尊は和田源秀の持念仏・和田氏一族の祈願所なりしと伝ふ。とある。
 堺市美術工芸品報告書では、阿弥陀仏は、江戸時代、多聞天王立像は、平安時代後期とされている。なお、前住職の中野氏の話では、墓地にある板碑を調査された人があり、「この板碑は、府内で一番古いものである。」といわれたとのことである。しかし、和泉砂岩で磨耗著しく、年号、内容等は読み取れない。

【和田新發意の墓】
 南朝方の勇将とされ、新發知源秀とも記される。府誌には、「東西五間、南北四間、新發知賢秀が、楠正行と共に河内の四條畷にて戦没するや、家人其遺骸を収め、郷に帰り此に葬れり、という。」とある。外にも同様の記述が多い。家の伝承では楠公と新發意の首塚と伝えている。子どもの頃、そこだけがうっそうとした森になっていて、古木や蔦でおおわれていた。モリサンといって、森の中に入ったり、竹木を切ると罰が当ると恐れられていた。
 明治初年の地籍図には、古墳の色別があり、「カイトノモリサン」と記入されている。父が若い時には、五輪塔がまつられていたとのとのことであったが、私が泉北二号線建設で消滅する直前に見た時には、中央に径一m余の穴が掘られ、その付近に茶色の土器片が散乱していた。事前調査はしなかったと聞く。近くに、多聞寺や八幡社の跡がある。
【引用出典元:「堺泉州」第11号 2001.10.1発行                                       
堺泉州の地名「和田の地名、遺跡、史蹟、伝承」和田在住郷土史家 土師楠嘉氏】

更新履歴
更新:2014年10月28日 14:55:11 今の和田新發意墓を追記
作成:2014年 8月21日 18:30:16 再構築
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