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名所図会 巻2-55 陶器莊

陶器莊たうきのしやう

昔は大村郷。深坂村、田園村、辻ノ村、大村、北村、府久田ふくた村、髙藏村、岩室村をいふ。むかしは、此地にて陶器すゑものつくり出すゆへ、名とす。[日本紀]崇神すうしん天皇七年の巻に曰、霊夢れいむによつて、茅渟縣ちぬのあがた陶邑すゑむらに於て、大田々根子をたてまつるとあり。又、[舊事記]大己貴神おほあなむちのかみ天羽車大鷲あまばくるまのおほわしに乘て、節渡縣せとのあがた 茅渟の事也 にくだりゆきて、大陶祗女おほすゑすみのむすめ活玉依姫かつたまよりひめとし、往来かよひ給ふと神代かみよに、此所すゑ氏の人ありて、則、陶邑すゑむらのこりし也。又、此さと人民にんみん陶器たうきを作りてなりはいとす。[三代實録]曰、貞観元年夏四月廿一日、河内、和泉两國、陶器すゑものを焼くたきゞる山をあらそふ。朝使てうし、左衛門少尉紀今影きのいまかげかんがへて、定て和泉國とす。今は、此事絶て、農家のうかばかり也。折節おりふしには、土中どちうより陶器たうき出る。予も、此地へおもむきし時、髙倉寺たかくらじの住侶に掘出したる陶器たうきもらかへる。まこと奇雅きがにして、古代こだいすがた顕然けんぜんたり。世に、行基ぎやうきやきといふ古代の陶器すゑものあり。これらをいふか。此地は、行基時代じだいよりはるか已前ゐぜん陶器たうき也。神代かみよより、ともいひつべきもの歟。

今の陶器荘

陶邑について、堺市立南図書館の所蔵図書「和泉のくに今昔物語(著作 堺大仙)」の中に記述されていましたので転載させていただきます。
陶邑すえのむら -古代の窯元-
 大阪府下最大の泉北ニュータウンが造成されるまでの泉北丘陵は、大阪でも珍しいほど詩情豊かな、しかも野趣に富んだ自然環境に恵まれたところでした。
 そして古くから河内国茅渟県ちぬのあがた陶邑すえのむらとして、歴史の重みにつちかわれた、人文学的、考古学的にまことに貴重な遺跡として早くから知られていました。(和泉国は西暦757年河内国から分離)
 ニュータウンの造成に並行して、いずれ消えゆくであろうこの陶邑の窯跡かまあとの学術調査が府の教育委員会の専門家の手によって行われました。その調査報告書を一読しましたが、まことにぼう大なもので、この陶邑がいかに大規模であったか今更ながら認識を改めた程でした。
 現在この付近の地名に土師・陶器・釜室などがありますが、いずれも陶邑の名残りです。
 陶器を作る技術を持った大陸からの渡来人が、この辺りに住みついたのは五世紀中頃からといわれ、およそ六、七百年間の長い間、かなり広汎な地域からの需要に応えて陶器の製造にたずさわったいました。
 三世紀の末から六世紀にかけて古墳構築の全盛期を迎えますが、この泉北丘陵からそう遠くない百舌鳥耳原もずのみみはらの野に、大和朝廷の権威の表徴ともいうべき雄大な古墳が次々と築造されました。中でも、仁徳陵は全長四八六メートル、面積四七万平方メートルという世界一の陵墓で、このほか大小あわせて約六十を越える古墳が存在していました。
 新しい土木技術をもった大陸からの渡来人がこの付近に住みついて、この大事業に従事しましたが、この丘陵では、古墳に必要な埴輪はにわや祭祀用陶製器具の製造を担当しました。さしずめこれは大和朝廷直属の宮廷工房としての性格を与えられていたのでしょう。
 次に、この丘陵がどうして陶邑に適したかの考証に入らねばなりませんが、第一は立地条件です。陶器の製造には、粘土層が良質であること、窯が作り易いこと、焼成に必要な良質のまきの入手が容易であることのほか、第二には気候、水利、需要への応え方に便利なことなどが条件です。特にここは丘陵の斜面を利用して作る登り窯形式に属する「あな窯」を作るには好都合でした。薪は窯の下部に拡がる灰原はいばらの炭素を分析調査した結果、アカマツ・スギ・ヒノキ・イヌマキ等と判明しましたから、原始林のように豊富だったのがうかがえます。
 次に、窯の規模と数ですが、大きいのは、直径二メートル、長さが一五メートルくらいありますが、一度にかなりの器物が焼けるわけです。
 その数は、大小あわせて千基を越し、未調査を含めると相当数に達するといわれます。
 窯跡調査での遺物ですが、殆どが須恵器すえきといわれる灰色をした陶器です。
 須恵器は五世紀中頃の古墳時代から奈良時代にかけて盛行した陶質の土器で、器の型はロクロを使用し、登り窯で千度から千三百度の還元炎で焼成して作り出されます。
 普通土師器の焼成温度は七百度ぐらいですが、須恵器は更に高温のため硬質となり、叩くと金属音を発し色も黒に近いネズミ色です。
 須恵器の種類ですが、つき高坏たかつきつぼかめ、瓶、鉢、皿などで、生活用、祭祀用に使われ、中にタコ壷などがみられますが、海と漁撈ぎょろうとの生活様式を知る上でまことに興味深いものです。
 須恵器は、いわゆる陶器すえきに通じ、朝鮮の新羅しらぎ焼の系統を受け、時代がさがるにつれ漸次日本化され、中世の備前焼、瀬戸焼、常滑焼へと受け継がれていきますので、日本人の生活文化の発展上、この古代の陶邑のはたした役割は、まことに大きく、貴重な遺跡であります。
 大陸から陶器製造の技術者が渡来し、この付近に永住し、やがて帰化人といわれるようになるのでが、その目的が文化使節としての渡来なのか、また政治的であったのか今のところ解明されておりませんが、大陸との文化交流史の上からも、学問的解明を急いでほしいものです。
 なお、泉北窯跡について、より詳細な説明と遺物の展示が泉北考古資料館(泉北ニュータウン若松台大蓮公園内)で公開されています。
【出典:『和泉のくに今昔物語』(著作:堺大仙 発行:財団法人大阪府泉北センター 昭和63年11月)】

移築復原された栂第61号窯


茅渟県陶邑を象徴する登り窯跡
大蓮公園(堺市南区若松台)に移築復原された栂第61号窯
栂地区南部域の丘陵に存在した登窯であり7世紀初頭の須恵器生産に築かれ使用されたものである。発掘調査した多数の窯で、泉北丘陵の窯のうちでも最大規模のものであり、泉北丘陵における窯業生産をうかがう好資料である。保存度がきわめて良いものであったため原寸大で移築されて復原をおこなったものである。手前の床の平な部分で薪を焚き、上部に煙道を設け、斜面に壺や甕などを置いて焼き上げたものである。
【出典:復原登り窯に設置された案内板】

大阪府指定文化財 史蹟 高倉寺73号窯跡


大阪府指定文化財 史蹟 高倉寺73号窯跡標識


この傾斜地を少し登ると窯跡が有ります


高倉寺73号窯跡案内板


高倉寺73号窯跡


更新履歴
更新:2014年11月 2日 11:42:08 今の陶器荘を追記
作成:2014年 8月21日 22:19:36 再構築
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