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名所図会 巻2-58 大集會山天王院髙倉寺

大集會山だいしゆゑさん天王院てんわうゐん髙倉寺たかくらじ


陶器庄たうきのしやう  髙倉寺たかくらじ
此ほとりの土中より今も陶器すゑものを掘出す事まれにあり。

陶器莊たうきのしやう髙倉村たかくらむらにあり。真言宗。

金堂こんだう
本尊、藥師佛。行基作。

祖師堂そしだう
本堂の東にあり。行基菩薩、弘法大師を安す。

行者堂ぎやうしやだう
大師堂の南にあり。法起菩薩、役行者を安す。

大日堂だいにちだう
本堂の南にあり。

鐘樓しゆろう
大師堂の南にあり。

鎮守社ちんじゆのやしろ
大師堂の南にあり。熊野くまの白山はくさん金比羅こんひら梵天ぼんてんを祭る。

弁財天べさいてんの
本堂の北にあり。弁天、聖天しやうてん尊を祭る。

当山は、文武もんむ天皇御宇、慶雲けいうん二年、行基ぎやうぎ菩薩ぼさつ開創かいさうし給ふ。いにしへは、伽藍がらん巍々ぎゝとして、坊舎ばうしや数多あまたあり。永正十年癸酉十月、十穀沙門真海こくしやもんしんかいぐはする、当寺たうじ伽藍がらん古圖こづに見へたり。上古は、此地をんで、修恵院しゆゑゐんとも称す。当寺の什具じうぐねうめいに曰、久安きうあん五年十月十八日、大修恵院だいしゆゑゐんせんず。又、水天尊すいてんそん影像ゑいざうあり。弘法こうばう大師の真筆しんひつ也。正平年中大かんあり。みことのりあつて、請雨しやううはうを十七ケ日、此尊像そんざう修行しゆぎやうありければ、たちまち膏雨かううしきりに降て、百姓ひやくせい太平たいへいうたふ。又、巨勢金岡こせのかなをかゑかき佛像ぶつざうの一ぢくあり。僧都松そうづまつは、此寺の北五町にあり。これは、恵心ゑしん僧都、こゝに来ッてちつし給ふ所とかや。又、梵字芝ぼんじしばといふあり。髙倉たかくら村より十町ばかり東にして、地上に梵字ぼんじかたちなかくぼなる土地あり。としれども、うずもれず。又、芝生しばふしようぜずといふ。すべて、当院たうゐんは、閑寂かんじやく幽棲ゆうせいにして、三密さんみつゆかすゞしく、白月はくげつ禅心ぜんしんてらして、鬼神きしんもよく服役ふくゑきするのしやうなり。

今の大修恵山高倉寺


境内石標「真言宗 一等格院 高倉寺」


高倉寺塔頭寶積院山門


山号扁額「大修恵山」

大修恵山高倉寺縁起略記

 高倉寺は真言宗の寺院で修恵寺あるいは大修恵山と呼ばれていましたが「修恵」は須恵(陶)に由来するものと考えられます。行基開創49院のうち、家原寺に次いで慶雲2年(705)に造営された大修恵院と考えられる古寺です。
 当寺に御幸された高倉天皇(1168? 1179)から多くの朱印地と「高倉山天王院」の山号と寺号を賜りましたが、応仁の乱・永正7年(1510)の大地震・織田信長の焼き討ちにあい、ことごとく失われました。
 真海僧正、ついで憎快盛が復興に努め、天正末年には金堂を再建しました。慶長末年(1614)岸和田城主小出播磨守秀政の三男小出大隅守三尹が分家して陶器村に陣屋をおき、当寺に帰依して諸堂の修理・改築などを尽くしました。
 明治になって本坊、宝積院以外の塔頭・寺院数ケ寺は廃寺となり、現境内地を除く数万坪の土地は上地されました。
【出典:堺市設置境内案内板】

金堂 真横から望む金堂

御影堂 寶起菩薩堂

大日堂 阿弥陀堂

弁財天 鐘楼堂

更新履歴
更新:2014年11月 2日 12:08:26 今の大修恵山高倉寺を追記
作成:2014年 8月21日 23:12:12 再構築
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