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名所図会 巻3-21 俊乘坊重源墓

俊乘坊重源墓しゆんじやうばうちようげんかはか


桒原くははら 俊乘坊しゆんじやうばう古蹟こせき
神鳴や一村雲のさへかへり        去来

桒原村西福寺といふ所にあり。此地にて入寂し給ふか。實記なし。桒原は水仙花の名産也。初冬より出る。

桒原井くははらのい
此所にあり。土人曰、むかし、此井へかみなりおちけり。井よりあがらんとする所を、ひとよりあつまり、井のうへふたおほふて、かみなりせめこと、やゝ久し。かみなりおほひくるしんて、ちかいはく永々えいえい、此地へおつる事なしといひけれは、ふたを取りてゆるしやりぬ。それより、此地にかみなりおつる事なし。雷鳴らいめいのとき、桒原桒原くはばらくはばらといふも、此いゝによるとぞ聞し。これ、此へんことはざにして、三尺さんしやく童子どうしもこれをいへば、もらす事あたはす。こゝに記し侍る。

今の西福寺


西福寺 俊乘堂

俊乘堂 西福寺の縁起


雷井戸


「西福寺と雷井戸」案内板

西福寺ご縁起

重源の寺 雷・耳の寺
西福寺の縁起
1、当山の草創は、奈良時代(千参百年以上前)泉寺と仏性寺にさかのぼる。
 その昔(千二百五十年以上前)当山で沙弥道行が雷封じのため大般若経を書写し伊勢神宮に奉納する(伊賀の常楽寺
 に現存する)。
1、当山には雷井戸があり、この雷井戸に落ちて困っていた雷を助けた故事で雷封じのクワバラ寺として古くから全国に
 知られている。
1、当山には霊験あらたかな耳の守り本尊十一面観音菩薩をおまつりしている。難聴、耳鳴りなどの耳病平癒を祈願す
   るために多くの人々がおまいりする。
1、当山は、古くから奈良東大寺と関係が深く中興の開基重源上人(鎌倉時代東大寺再建の勧進職)は、西福寺に留錫
 し、念仏道場を開き寺門興隆をはかり谷山池の築造、槙尾川の改修など郷土の開発につとめる。
【出典:境内案内板】

重源

重源(ちょうげん、保安2年(1121年) - 建永元年6月5日(1206年7月12日))は、中世初期(平安時代末期から鎌倉時代)の日本の僧。房号は俊乗房(しゅんじょうぼう、俊乗坊とも記す)。
東大寺大勧進職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。
出自と経歴

紀氏の出身で紀季重の子。長承2年(1133年)、真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち、浄土宗の開祖・法然に学ぶ。四国、熊野など各地で修行をする。中国(南宋)を3度訪れたという(異論もある)。
東大寺は治承4年(1180年)、平重衡の南都焼打によって伽藍の大部分を焼失。大仏殿は数日にわたって燃え続け、大仏(盧舎那仏像)もほとんどが焼け落ちた。
養和元年(1181年)、重源は被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。当時、重源は齢61であった。

東大寺大勧進職

東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に当てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、それに成功している。
重源自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導した。自ら巨木を求めて周防国の杣(材木を切り出す山)に入り、佐波川上流の山奥(現在の滑山国有林付近)から道を切開き、川に堰を設けるなどして長さ13尺(39m)・直径5尺3寸(1.6m)もの巨大な木材を奈良まで運び出したという。また、日本の僧侶も多く修行した中国の阿育王寺の舎利殿の再建の為に周防の木材の一部を中国にも送っている(当時の中国(宋)の山林は荒廃し、木材は貴重品であった)。更に伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。
途中、いくつもの課題もあった。大きな問題に大仏殿の次にどの施設を再興するかという点で塔頭を再建したい重源と僧たちの住まいである僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。なお、重源は東大寺再建に際し、西行に奥羽への砂金勧進を依頼している。更に東大寺再建のためには時には強引な手法も用いた。建久3年9月播磨国大部荘にて荘園経営の拠点となる別所(浄土寺)を造営した時及び周防国阿弥陀寺にて湯施行の施設を整備した時に関係者より勧進およびその関連事業への協力への誓約を取り付けたが、その際に協力の約束を違えれば現世では「白癩黒癩(重度の皮膚病)」の身を受け、来世では「無間地獄」に堕ちて脱出の期はないという恫喝的な文言を示している。また、文治2年7月から閏7月にかけての大仏の発光現象など大仏再建前後に発生した霊験譚を重源あるいはその側近たちによる創作・演出とする見方もある。
こうした幾多の困難を克服して、重源と彼が組織した人々の働きによって東大寺は再建された。文治元年8月28日(1185年9月23日)には大仏の開眼供養が行われ、建久6年(1195年)には大仏殿を再建し、建仁3年(1203年)に総供養を行っている。
以上の功績から重源は大和尚の称号を贈られている。
重源の死後は、臨済宗の開祖として知られる栄西が東大寺大勧進職を継いだ。
東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝)が祀られている。運慶の作とする説もあり、鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。浄土寺(播磨別所、重要文化財。天福2年(1234年)東大寺像の模作)、新大仏寺(伊賀別所、重文)、阿弥陀寺(周防別所、重文)にも重源上人坐像が現存する。

著作

重源は、建仁3年(1203年)頃に『南無阿弥陀仏作善集』を記している。今日、一部で戒名に阿弥陀仏をつけるようになったのは重源の普及によるともいわれる。

大仏殿のその後

重源が再建した大仏殿は戦国時代の永禄10年(1567年)、三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。
現在の大仏殿は江戸時代の宝永年間の再建で、天平創建・鎌倉再建の大仏殿に比べて規模が縮小されている。

遺構

現代の東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂(法華堂の前面部分)が残っている。
建久8年(1197年)、播磨の別所に建造られた浄土寺浄土堂(兵庫県小野市)は現存しており国宝に指定されている。
京都市の醍醐寺経蔵は建久6年(1195年)に重源が建立したものであったが、昭和14年(1939年)に周囲の山火事が類焼し焼失した。

大仏様

重源が再建した大仏殿などの建築様式はきわめて独特なもので、かつては「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれていたが、インドの建築様式とは全く関係が無く紛らわしいため、現在の建築史では一般に「大仏様」(だいぶつよう)と呼んでいる。
当時の中国(南宋)の福建省あたりの様式に通じるといわれている。日本建築史では飛鳥、天平の時代に中国の影響が強く、その後、平安時代に日本独特の展開を遂げていたが、再び中国の影響が入ってきたことになる。構造的には貫(ぬき)といわれる水平方向の材を使い、柱と強固に組み合わせて構造を強化している。また、貫の先端には繰り型といわれる装飾を付けている。

更新履歴
更新:2014年11月 2日 16:31:17 今の西福寺を追記
作成:2014年 8月22日 22:26:17 再構築
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