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名所図会 巻3-82 金凉山願泉寺

金凉山きんりやうさん願泉寺がんせんじ


願泉がんせん
卜半ぼくはんほう
世に貝塚かいつか御坊といふ。


鮮魚
せんぎよををくる
顕如上人当山に移住し給時うつを晴さんが為に海濱かいひん遊覧ゆうらんし給ふ。其時きよ鮮魚をさゝぐ。此例今に絶すして毎歳秋の頃、貝塚浦の漁人等一日の穫物ゑものを当山より京師两本願寺に増進ぞうしんすといふ。

貝塚かいつかにあり。真教院卜半ぼくはんと号す。貝塚一けんりやうす。宗派は、表裏御門跡御宗義を以て東叡とうゑい山に属して正院家たり。

本尊阿弥陀佛
脇檀けうだん、宗祖親鸞聖人真向影、聖德太子、七髙祖等の影を安す。

當寺は、むかし、僧正行基、畿内に四十九院を草創し給ふ砌、此海濱かいひんにも佛場ぶつじやうたてんと思召せとも、此功ならずして、むなしく星霜せいそう累りぬ。今に、沖中おきなか出るは、此佛縁のしるし也とそ。天文年中、漸佛堂舎屋しやおく隆興りうこうすといへとも、天正五年の頃、紀州雑賀さいか、貝塚に乱入す。其時、織田信長の下知として、堀久太郎秀政来ッて、一揆をしづむ。此時、堂舎、すこぶる、荒蕪くはうぶに及ふ。しかうしてのち、本願寺第十一世顕如上人開基給ひ、もと、此上人は、第八代蓮如上人より大坂石山御堂いしやまみだうにましまし、海内かいなんに宗風をかゝやかし給ふ。信長思慮しりよして、石山の地は要害ようがい堅固にして、畿内の勝地也。本願寺を他境へ退去たいきよなさしめ、本城を築かんとて多年合戦に及ふ。 事は[信長記拾遺]に詳也。 遂に、みことのりを蒙りて、顕如上人は紀州雑賀におもむく。なをも、信長、野心やしんいだき、石山退去の砌、軍勢をもつて追討にせんと計る。此時、顕如上人、危急ききう存亡そんばうとき也。貝塚卜半に急難きうなんすくはん事を乞たまひて、一通の懇書こんしよを贈り給ふ。卜半、此せつ、紀泉两國の門徒をかたらひ、忠誠ちうせいはげまし、上人を石山よりつゝがなく退去なさしめ、泉州の敵勢をしづめ、紀州雑賀に送り奉る。天正の頃には、顕如上人の嫡男けう如上人も、信長と不和ふわにより三ばかり潜居せんきよし給ふ。顕如上人在住の時に、堂下の池中に岐枝ふたとまたれんさけり。世に双頭さうとうれんまれにありといへとも、荷莖かけいさうなるは古今ここん希代きだい也。本願寺御宗風表裏二に分れ、法流ますます興隆こうりう霊瑞れいずい也とて、人々甘心かんしんせり。此双枝の蓮華、今に本尊だん上の莊巖しやうごんに遺れり。信長滅びて後、天正十三年、顕如上人、攝州天満に遷り給ふ砌、當寺を卜半に附属ふそくし給ふ。寺式じしきは上人在住の規則きそくを以て勤行ごんぎやうあるべき旨、遺命ゐめい有につて、今に於て舊式に変わる事なし。これ、全卜半一宗に功あるによつて也。毎歳霜月の報恩講ほうをんこうには、自他じたしうぐんをなし、貝塚町々に市店してんかざりにぎはしき事、たうの如し。

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作成:2014年 8月25日 10:19:14 再構築
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