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名所図会 巻4-21 塙直之墓 淡輪重政墓

塙直之墓ばんのなおゆきのはか   淡輪重政墓たんのわしげまさのはか

倶にかしの井村北の入口路傍ろぼうにあり。元和元年四月、こゝに於て戦死す。あるいはく、元和元年四月廿七日、紀伊國淺野但馬守長晟、八千の軍士を卒して攝州大坂に向ふ。先陣は淺野左衛門ノ佐、上田主水もんど、多助左衛門等、泉州安松村に到る。時に、同國尾崎、吉田九右衛門馳来て告て曰、明廿八日、大坂大野主馬助治房、二萬騎を卒して、但馬守出陣の跡をうかゞふて攻討んとす。衆議、既に決定せり。三將、これを聞て、すなはち軍旅ぐんりよの事を問ふ。九右衛門が曰、此地、さいはいに舟岡山あり、又、二つの池あり、四方みな水田なり。もとも、守戦に利多しといへとも、人馬の来往、自由ならす。もし進退しんたいどTに當り、変化へんくはをうせんとほつせは、則、陣を信達しんたち村の懸岸の上に張て、かしの井川を前にして戦はんには、と答ふ。三將、これを也とて、共にたくす。南軍なんぐんくはい士は、上田主水もんど、亀田大隅、多湖助左衛門、横江平左衛門、水谷又兵衛、髙河原小平太、横関新三郎等なり。上田、亀田、共に武名を振ふ。大野主馬助の先勢さきせい、既に佐野村に陣す。魁將くはいしやうは、ばんだん右衛門直之なおゆき淡輪たんのわ六郎兵衛重政なり。團右衛門はきこゆる猛勇もうゆうなれば、竪横じうわう無尽に切て廻り、敵あまた討取、暫く猶予ゆうよの所に、多湖たこ助左衛門か放つ矢、だん右衛門がひたひあたるよと見へしが、馬より下にどうとをつ。其時、八木新左衛門馳来ッて首をる。淡輪たんのわは、團右衛門か戦死を見て、今はかうよと思ひ、四角八方に切て廻り、終に討死し、首を永田治兵衛にとられけり。次の將士、岡部大學、創疵やりきづかうむる。然りといへとも、岡部、金丸等、尚も、命を塵芥ぢんかいよりもかろんじて、短兵たんへいきうに攻戦ふ。南軍、つかれ、息絶いきたへて、おぼへず南の河原に引退く。但馬守の陪臣ばいしん、小野慶雲けいうんといふものあり。老剛らうかう勇士ゆうし也。旗本の諸士をはげまして、くつばみをならべて一度にかくる。北軍、此いきほひ僻易へきゑきして、つひ敗北はいぼくす。此時、大將大野主馬助は、貝塚かいつか願泉寺ぐはんせんじ卜半ぼくはんに在てゑんず。一陣すでに敗れたりと聞て、にはかに馬を進むといへとも、南軍、早く椿つばき坂に退しりぞく。こゝに至て、くゆれども其益なし。故に、火をかしの井の人家に放って、攝州に帰る。此時、岸和田の城主、小出大和守、いくさを出して敗士を追ふ。一戦にも及はす、大坂の城ににげ入る。南方の三將の下に、首十三を得たり。

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作成:2014年 8月25日 18:17:46 再構築
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